《その2》

 

「都をば霞とともに出でしかど秋風の吹く白河の関」        (能因法師)

 

「吹く風を勿来(なこそ)の関と思えども道も背に散る山桜かな」  (源義家)

 

 師走の24日、名神、東名、首都高、常磐道と車を駆って、未明に福島県に入った。大昔は季節を違えての旅となる道筋であったろう。近代に入っても、今日のように高速自動車道や新幹線が整備されるまでは、東北へは鉄道による長旅を強いられ、東北本線や常磐線の始発となる上野駅がその玄関口となっていた。望郷の思いをうたった石川啄木の「ふるさとの訛りなつかし人混みの停車場の中にそを聞きに行く」にある停車場は上野駅であったように記憶している。何かの折りに東京に行くとき、上野駅に立ち寄ってみる。今でも、胸にざわざわとしたさざ波が立つ思いを自分も抱く。 目的のいわき市は、太平洋に面した福島県南部に在る。福島県は、浜通り、中通り、会津と三つの地域に大きく分けられるが、その浜通りの中心がいわき市である。

 どこのインターチェンジで高速を下りようかと逡巡したが、スケジュールがあるわけでなく、いわき市に隣接した広野町で下りた。というより、それ以上は福島第二原発の20㎞警戒区域に掛かるため北上できなかった。一般の国道も厳戒態勢のなか検問を行っており、原発関係車両だけが通過できた。他の県道とかにまわってみたが、やはり20㎞圏に入るところでバリケード封鎖されていた。放射能という眼に見えないものへの恐怖を、より増幅させる光景であった。その恐怖というのは、時として風評被害を招来する。臨時的に雇用されパトロールを行っていた地元の方も、先の見通しが立たぬことと風評被害を憂慮されていた。 警戒区域外にあっても、無人と化している家々を散見する。生活していくということは、そこに基盤がなければならないし、それは単に家があるということだけではない。無人の家は寂しく哀しい。その対極にあるかのように火力発電所が稼働しており、巨大な煙突から、冬の太平洋の朝の青空に白い煙を吐いていた。

 ふと、広野から大型バイクで通学していた級友がおり、彼のバイクの後部に乗せてもらい広野に来たことがあったことを思い出す。

 その広野町から南下する。国道沿いは津波の大きな影響は見られず、昔を髣髴させるたたずまいがあった。海岸沿いの道を探す。そして、唖然とする。風景が完膚無きまでに破壊されていた。

 打ちっ放しのコンクリートの家屋の基礎だけが、無残に防波堤まで続く。その頑強であったはずの防波堤までもが、えぐられている箇所がある。アスファルトがはがされた道路、橋脚だけを残す橋。

 かつては人々の生活が営まれていた場所が、無機質な空間と化している。それは小さな半島の斜面の際まで、津波の行方を弱めたであろう常磐線(広野のさらに北では、その線路も流されてしまっている)の土手近くまで続く。建てられて年月があまり経っていない家が残っていたが、一階部分はがらんどうとなっている。

 震災から九ヶ月の間に、ほとんどの瓦礫は片付けられた。震災時の凄惨さは、報道された映像を繰り返し見ていたものの、直面する現実には想像を絶するものがあったに違いないし、津波が去ったあとの光景は、今眼前に広がる光景以上に人間を無気力にさせるものであっただろう。

 久ノ浜、四倉、藤間、薄磯、江名と続く海岸線もまた同じ状態であった。たとえ堅固な鉄筋コンクリートの建物であっても一階部分と上階とでは同じ建物とは思えぬ様を呈していた。その名を記した門柱だけを残して消えてしまった保育園。新舞子浜は白砂青松の地。その松林も、津波の海水を浴びたからなのか、その幹同様に褐色化していた。けれども、その松林が津波の威力を弱めてくれたことを思うと痛々しさが増す。塩屋崎灯台は、あの日の惨劇をつぶさに見ていたに違いない。白亜の灯台は、いろいろな思いを胸の裡にためつつも、凛として大海に臨んでいるかのようであった。

 灯台近くに、豊間の中学校がある。建物はあるが人気はまったく無く、グランドは瓦礫の集積地になっていた。あとから聞いたところによると、在校生は平などの中学校に分散しているという。

 豊間に訪ねたい人物がいた。高校の同級生で、卒業後のしばらくは音信があったのだが、時の移ろいの中でいつしか途絶えた。今回の震災で、彼の安否が気になっていた。卒業アルバムにあるかつての住所を探した。病院の通り向かいに、やや見覚えがする家の並びがある。ここ一帯は、基礎を高くしてあった病院が津波の直撃を防ぎ、床下の浸水で済んだという。確か彼は、病院に勤める母とこの辺りに住んでいた。開いていた店の主人に問うてみると、御主人は彼を知る人であり、この地を離れた一家の消息を記憶をたどりながらわざわざ知人等に尋ねてくれた。三年前に彼は亡くなっていた。一瞬、頭の中が白くなった。

 小名浜から海岸線を離れ、いわき市の中心部の平へと向かう。向かう道すがら、そのあまりの変容に驚く。小名浜も、かつては漁港の町であったのが、工業団地が造られ、多くの企業が誘致された。いわき市の三年間の、最初の二年間は小名浜に住んでいたのだが、その住所は密集した企業、工場に埋没してしまい探り当てることができなかった。大きな牛蛙を水田に追ったことなどは幻想だったかと訝しむ。同様に、通学のバスを途中下車し、縄文の貝塚を無断で掘り返し、そして手にした土器の破片が小さな感動を与えてくれた遺跡もニュータウンと化しており、なぜか大縮尺の地図からもその所在は消えていた。平へと向かう車窓から眺める光景は、東京の八王子から横浜へ向かう、大阪から京都へと向かう国道のそれと変わりはなかった。その地域の変容、発展は、その地域に住む住民の意思であり、願いでもあるのだろう。ノスタルジック過ぎる思いは判断を誤ると思いつつも、一方では変わらなくあったものが徹底的に破壊されたことを併せ思うとき、複雑な思いと寂寞感を抱くのを否めなかった。

 平では、卒業した高校を訪問したり、他の同級生の消息を追ってもみたが残念ながら徒労に終わった。40年の歳月はそれなりの重みを持つということか。町の様子さえもが、初めて訪れたかの感が強く、気分は沈む一方であった。でもそれは、自分勝手な思い込みというものだろう。

 最終日、中学校と交流をもつ小名浜第一中学校へと向かう。学校から託された二つを届けるためである。ひとつは復興Tシャツの売上金等を充て寄贈する黒板消しクリーナーの目録、もうひとつは学習発表会の取り組みで2年生が作製した階段アートの写真パネルであった。小名浜一中は小高い丘の中腹にあり、校区も海岸線からは離れていたため、津波の直接的な被害からは免れていた。しかし、体育館や校舎の一部は避難場所となり、震災後しばらくはここで生活することを余儀なくされた方々は多かったと聞く。そして、生徒や教職員の知人や縁者には津波の被害を受けた人々も当然いるわけであり、直接間接的な被害は広範囲に及んだと思われる。それに加えて原発問題である。風評被害もあってか、この避難場所にも物資が届かなかった時期もあったと聞く。

 校長室にて、生徒会役員の二人の生徒と対面する。託された二つの物を手渡し、彼らの屈託のない笑顔に接したとき、いわき市を訪れて初めて僕も笑顔を浮かべることができたように思う。将来を担う彼らの笑顔こそが、希望につながるものと確信できたからだ。

 そして僕は、小名浜を、いわき市を、福島県を後にした。

 

 ※福島県に隣接した茨城県の筑波山の近くの町が、僕の生地である。今回、その地に寄ることもできた。90歳を超えた叔母や二人の従兄弟とも会うことができた。

 京都に帰り、正月に見た夢(初夢?)が不思議だった。といっても、どんな内容かは全く覚えていない。ただ、目が覚めた時に忘れまいと殴り書き記したフレーズだけがメモ用紙に残っている。脈絡もなく、たわいもない文句だけれど、僕自身の思いの塊かなとも思える。

         おやすみ  おはよう

         どこでもできる

         ここが日本

         私の住処(すみか)

                                                   (2012/1月10日記)