(北海道 余市)

⑨(八月二十五日)

 昔は、まだ夏休みだった。

 今日からⅡ期が始まった。しかも、その初日から授業があり、フルの一日だ。徐々に身体を慣らしていきたいのに、いきなりギアをトップに入れないといけない生活に。なんとも余裕がない。その効用は何なんだろうと、本来は説明しなければならない立場にあるのだけれど、つい思ってしまう。昨今は、各教室にエアコンが設置されている、だからだろうか。

 効率を求めることは大切なのだろう。でも、そのことのみを追い求めると人は、陥穽(かんせい)に陥り、かえって物事を見誤るんじゃないかと危惧する。

 ふと、「無用の用」という言葉が浮かんできた。一見無駄のように見えて、その実そうではないのだという意味だろうか。自転車や車のブレーキは、効かなければもちろん大事故につながるけれど、いきなり効いてしまっても、自転車は転倒するし、運転する者も前倒しになってしまう。それを防ぐためにも、「遊び」の部分がブレーキのレバーやペダルにはあるのだけれど、それも「無用の用」なんだと理解できる。我々の生活においての「遊び」も、同じ働きがあるのだろう。もっとも、僕の場合は周囲から「遊び過ぎ」とは言われるが…

 

 

⑩(九月一日)

 本当にたまにではあるが、本を読んでいる時に、気になったフレーズが書かれてある頁の端を折ることがある。それがちょうど犬の耳みたいに見えるから、ドッグイアーというのは、高校時代に英語の授業で習ったような。

 ブックオフでまとめ買いし、読み進めた一冊の、ドッグイアーした頁には次の箇所があった。本のタイトルは、『君の膵臓をたべたい』(住野よる著)という一見センセーショナルな題名だが、僕よりも十代の若者にも是非読んで欲しいなと思った一冊だ。落涙。

p192

 「生きるってのはね」「きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」「誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。自分たった一人じゃ、自分がいるって分からない。誰かを好きなのに誰かを嫌いな私、誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きてるってことだと思う。私の心があるのは、皆がいるから、私の体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きている。まだ、ここに生きている。だから人が生きていることには意味があるんだよ。自分で選んで、君も私も、今ここで生きてるみたいに」

         (2017.2.13記)

 

(北海道 積丹半島から)

(島武意海岸)