火縄銃にみる日本人の長所と短所 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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鉄砲という新技術は,1543年に突如,種子島という日本の南海の小島に伝えられた。日本人はよくこの新技術を吸収し,たちまちのうちに鉄砲の国産化に成功する。また多くの人が,種子島に渡り鉄砲の製作技術や操作を学んだ。日本人は新技術の吸収力に富み知的好奇心の旺盛な国民であると言っていいだろう。

鉄砲の操作を学んだ日本人たちは,射撃の正確性に強くこだわった。それは砲術流派の伝書を見ても明らかだ。一匹狼の砲術家が,その業を認めてもらうため,砲術を広めるためには,百発百中の腕が必要だったのだ。

 

毛利伊勢守流砲術の伝書

 

日本の砲術家たちは,命中率と長距離射撃に強くこだわり,それに特化した狭間筒と呼ばれる鉄砲を生み出した。狭間筒は,通常の火縄銃より銃身が10 センチ以上長く,全長が140 センチを越える鉄砲で,城壁の銃眼(狭間)や船舶などに備えて使用しため,この名がついた。

 

稲富流仕様の狭間筒

全長150センチ 口径1.5センチ 裏九曜象嵌

 

鉄砲は。銃身が長ければ長いほど、弾丸が火薬の燃焼エネルギーを多く受け取れるから、射程が延びて威力が増す。狭間銃は、長距離狙撃を目的として作られ、200 300 mの距離を照準したものといわれている。いわば戦国時代の狙撃銃である。

 

狭間筒 立ち放しの型

      

 

  日本の砲術が命中率にこだわり,個々人の神秘的能力開発に傾注していったのは,当時の日本が経済的に貧弱だったからであった。鉄砲は高価だったし火薬原料の硝石は輸入に頼りきっていた。だから,一発必中にこだわらざるを得ず,弾幕を張るような物量戦は考えることはなかった。

 私は,この辺にこの辺に日本人の哀しさを見る思いがする。それは食料生産などの乏しかった島国という国土環境に原因があった。そのため,物量戦よりも神業のような一発必中の技を重視するしかなかったのである。