根来衆,雑賀衆などの残党の鉄砲 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 徳川幕府は,島原の乱を平定するのに12万の軍勢と3か月もの時を要した。島原の乱後,暴動や反乱に鉄砲を使われることを恐れた幕府や諸藩は,鉄砲改めと呼ばれる銃規制を行うようになった。原則として武士のみが鉄砲を扱えるとし、他の身分の所持は,猟師鉄砲と、田畑を荒らす鳥獣を追い払う威し鉄砲に限ることにしたのである。これによって市街からの火器の除去は,大体完成したが、農村部にはかなりの鉄砲が残された。

 貞享四年(1687年)に行われた『諸国鉄砲改め』では,仙台藩領には約4000丁の鉄砲が在郷にあったとの記録が残っている。仙台藩領の北部約30万石を領有していた葛西氏と大崎氏は,小田原征伐に参陣しなかったため取りつぶしになった。その後,両家の家臣は,刀を捨てて帰農する者が多かった。新領主となった仙台藩は,葛西氏や大崎氏の残党であるこれら帰農者たちに鉄砲の所持を認める鉄砲鑑札を発給し,その家柄を重視した取り扱いを行った。岩手県一関市東磐井地区は,葛西家旧臣の多かった地域であり,鉄砲鑑札を与えて所持を認めた鉄砲は500を数えたという。

仙台藩が発給した鉄砲鑑札

 

 

 また紀州藩が行なった元禄六年(1693年)の鉄砲改めでは,武士以外の者が所持する鉄砲の数は8013丁だったと記録されている。戦国時代の紀州は、本州最初の鉄砲伝来地で堺と並ぶ鉄砲の大生産地だった。紀州の根来寺の僧兵や雑賀衆は,鉄砲傭兵集団として天下にその名を轟かせた鉄砲先進地だったのである。紀州藩の鉄砲改めで確認された8013丁の鉄砲のほとんどは,根来衆や雑賀衆の残党が所持した鉄砲だったと,私は推測している。

紀州の鉄砲

 

 根来衆が滅び,雑賀衆が散り散りとなって歴史の表舞台から去って100年以上経過しても,これほどの鉄砲が紀州に残っていたということは,大きな驚きである。この8013丁の鉄砲は,根来衆や雑賀衆の戦闘力の凄まじさを物語っていると言えそうだ。