九州のキリシタン大名で鉄砲名人の毛利高政公は,若い頃,津田流砲術を修行しその秘訣を授けられと鶴藩略史は記している。関が原の戦い後、毛利高政公は,大分県の佐伯へ2万石で転封となった。この佐伯入国にあたり,高政公は佐伯藩領の大庄屋である時儔にお目見えを許し津田流砲術の伝書を下賜した。
毛利高政公所蔵の大鉄砲
この事実を「染矢家文書」は,『時儔は,毛利高政公から津田流御流儀の鉄砲の秘書を頂戴した』と記し,同家にはそれと推定される砲術伝書も伝わっている。これらから考えるに,関ヶ原の戦いの頃には,毛利高政やその臣下は,津田流砲術を専らにして砲術を錬成していたとみてよいだろう。その後,毛利高政は,遅くとも元和4年(1618年)までには,世に伊勢守流と称された砲術流派を自ら創始した。門下には仙台藩二代藩主となった伊達忠宗や今治藩主の松平美作守などの大名クラスもいたから,よほど評判が高かった砲術流派だったと思われる。
毛利高政が創始した伊勢守流砲術の中には,津田流砲術の教えや砲技術などを継承していると考えるのが自然であろう。そこで,津田流の伝書中の絵図と伊勢守流砲術の特徴を明らかにした佐伯市歴史資料館作成の説明図とを比較し観察した。その結果,津田流砲術と伊勢守流砲術の鉄砲には次の共通点が確認された。
津田流砲術伝書中の絵図
佐伯市歴史資料館作成の伊勢守流砲術説明図
①銃身は八角銃身
②銃口に柑子と呼ばれる装飾が無い。
③用心金が無い
④先目当てと呼ばれる照星は,背の高い柱型
⑤先目当てと呼ばれる照星は,銃口直上ではなく,そのやや後方に取り付けられている。
おそらく,戦国末期の津田流砲術の鉄砲は,この共通点を統べて兼ね備えた鉄砲だったと推測できる。また面白いことに仙台藩の主力装備である4匁火縄銃は,これら共通点を統べて兼ね備えているのである。何故なら,仙台藩二代藩主となった伊達忠宗は,伊勢守流砲術の門下だったからである。優秀な師匠というものは,弟子の頭や行動の中で生き続けていけるものらしい。
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