長篠合戦図屏風と松浦静山の観察眼 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 九州の平戸藩主の松浦静山は,文人大名として有名である。静山は,1821年から1841年まで20年間にわたり膨大な随筆を書き続けた。その中に『火縄銃の撃ち方』を記した次の随筆がある。私には,この随筆がとても興味深かく感じられた。

       甲子夜話中の『火縄銃の撃ち方』部分の要約

 成瀬隼人正の家には長篠合戦の古い絵図があり,その借り出しをお願いしたら,心よく貸してくれた。それを模写させている時にじっくり見てみると、長篠城の様子や武田の武将が突撃して多数討死している様や兵馬や旗などの様が、実に迫真の図に見える。きっと、当時目撃した人が書いたに違いない。

 

長篠合戦図屏風中の徳川方鉄砲衆

 

 

信長の先兵と家康公の兵はみな片目撃ちである。最初に思ったのは、田付流や武衛流などは両目を開いて撃っているので、自分の藩士の撃ち方は田舎の昔風だと思って、今は全て田付流や武衛流と同じようにした。しかし、家康公の時代はもっぱら片目をつぶる撃ち方があったのが、この絵からわかる。荻野長の話には、稲富氏の系譜の中に片目で火縄銃を撃つ方法を家康公に申し上げた由が書かれていた。家康公が稲富流を採用したことはこの古い絵図を見てもわかる。

 

 松浦静山の観察眼は素晴らしい。下の写真は,稲富流砲術の学中集極意上巻の写しである。寛文四年(1664年)に成立した稲留流炮術伝書を,文化八年(1811年)に,門弟が筆写した巻物だ。免許皆伝を許された者が師範の屋敷に通って,額に汗して写したのだろう。これを見ると,たしかに稲富流の撃ち方は,片目撃ちなのである。

 観察する努力を惜しまなければ,絵図や文学作品にも,火縄銃と日本人を考えるためのヒントが溢れている。

 
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