
火縄銃は防御戦に適した兵器である。

織田信長はそれを知っていた。
写真提供 FC2ブログ 日本の武器兵器
1575年の6 月29 日( 旧暦では天正3 年5 月21 日 ) ,長篠城から数キロ西にある設楽の郷の連吾川を挟んで対峙していた織田・徳川連合軍3 万と武田軍1万5000 は,日の出から午後2 時頃まで戦った。押し寄せる武田軍に対し,織田方は,一人も前に出ず,鉄砲ばかりを打ち出して足軽であしらったと,信長公記は記している。
鉄砲に撃たれて倒れる武田軍兵士。 武田側も鉄砲を持っていたことが描かれている。 黄色矢印が武田の鉄砲 。 長篠合戦図屏風には武田側に5丁の鉄砲が描かれている。
火縄銃は口径にもよるが,少なくとも70 メートル先の鎧を貫通できるほどの威力があるだろう。銃砲研究家の須川薫雄氏が,直径10 ミリ,重さ約5.5 グラムの1 匁5 分の弾丸で,50 メートル先の厚さ1.4 ミリの鉄板装甲の甲冑を火縄銃で試射したところ,弾丸の鉛玉は20 ミリ×30 ミリの穴をあけたとの実験結果が公表されている。
実験結果から明らかなとおり火縄銃の威力は強烈だ。しかし,火縄銃は連射が利かず次弾装填を完了させるまでには,熟練兵でも25 ~30 秒程度を要するという弱点を合わせ持っている。次弾装填中,銃兵は有効な反撃を行えず,敵からみればかっこうの獲物である。火縄銃は侵攻作戦よりも,次発装填を安全かつ確実に行なえる環境,つまり陣地や城砦のような身を隠せる防御戦に適した兵器なのである。信長は,それを熟知していたからこそ,最前線に馬防柵や身隠しを構築し陣地防御態勢を整え,火縄銃の集中運用により武田軍を撃破できたのである。