骨董品は天下のまわりもの【桑名藩の弾薬箱】 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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人間が生々流転するように,骨董品もその持ち主を変えながら,時の流れの中を生き抜いている。しかし,運不運は人ばかりでなく骨董品にもある。中には,戦火や災害で消えしまったのも多い。また持ち主の管理が悪くて毀損してしまったものもあっただろう。昨日お話しした桑名藩の弾薬箱も,多くの人の手を経て,今は私の手元で息づいている。

 

 

この弾薬箱を製作させたのは,幕末の桑名藩主の松平定敬であった。松平定敬は,大名としては少し変わった男で,元治元年(1864年)に京都所司代に任命された頃,髪を総髪にし、洋装で馬に乗り都大路を闊歩したという逸話が伝えられている。若くて闘志にあふれた人物だったようで,薩長などの討幕軍に対し徹底抗戦し,北越戦争,会津戦争と転戦し,ついには榎下武揚が率いる幕府艦隊に合流し函館にまで行って戦った。

 

   写真引用 ウィッキペディア 函館戦争当時

 

   明治維新後,この弾薬箱は,桑名藩の手を離れ多くの人の手を渡り歩いた。わかっているだけで水谷友造さん 水谷友荘さん,矢田芳和さん,金武さんや魚会社などだ。何故分かるかというと,弾薬箱の引き出しを取り出してみたら,その脇板や底板に,これらの人の名前が墨書されていたからだ。多くは桑名周辺の人達だったらしい。

 

 

  

 私は思うのだけれど,名品には名品の生き場所というものがあるはずだ。骨董品は,大切な歴史資料で,日本人全員の宝だと私は思っている。コレクターはお金を出して一時的に預かっているに過ぎない。その骨董品を大事に保管していたコレクターに何かあれば,その収集品の寿命にも大きな影響があるかもしれない。またこのような名品をコレクターの部屋の中だけに置いておくべきではないだろう。この弾薬箱は,桑名市立博物館か三重県総合博物館に展示して,多くの人たちに見てもらうべき品だと思う。弾薬箱の調査も終えたから,もう数年もしたら,どちらかに寄贈せねばなるまい。それまでは,私のコレクションに箔をつけるために,伊達道具として手元に置いておこうと思う。