伊予の鉄砲と天才銃工について考える。 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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オレンジオレンジオレンジ予の鉄砲と天才銃工について考えるオレンジオレンジオレンジトラ

私は調査などで,たびたび四国を訪れたが,四国で一番好きな町は大洲だ。大洲は,加藤出羽守6 石の城下町で,古い町並みがよく残り,伊予の小京都と呼ばれている。

 

 

 

この時期,大洲に行くと地元の人たちは,よくミカンを御馳走してくれ,伊予土産ならこの時期はミカンだと話す。まぁ,大洲に限らず愛媛県は,蛇口からミカンジュースが出るという都市伝説を持つミカンの一大帝国だから,むべなるかなではある。

大洲によく行ったのは,堺の名工井上関衛門の鉄砲を調べるためだ。伊予の国一帯で作られる特色の顕著な伊予筒と呼ばれる鉄砲は,この井上一門の鉄砲鍛冶たちが作った鉄砲のような気がしてならなかったからだ。

井上関右衛門が製銃した三匁五分玉馬上筒

 

初代井上関右衛門は、伊予大洲藩加藤家のお抱え鉄砲鍛冶となり、五人扶持で士分に列せられた。当時,鉄砲鍛冶が士分に列せられることは珍しいことであり,しかも関右衛門という名乗りは,二代藩主泰興公から賜ったというから,初代関右衛門の製銃技術が,おそろしく優れていた証でもあろう。

 

伊予筒の十匁と三匁火縄銃

      伊予筒の十匁士筒と小筒では,その姿かたちが,まるで違う。いずれも井上関右衛門が
      製銃した鉄砲。      
      ただし,両者とも外記カラクリを用いるため,火挟みと引き金に共通性を見出せる。

 

初代の井上関右衛門は,せっかちな男だったらしく,「せっかち関右衛門」とあだ名されていたという。のんびりマイペースの札幌の虎造さんとは大違いだ。技術者の性格も様々だが,名工と言われる人たちは,性格の偏りが強いのかもしれない。伊予の鉄砲に用いられる外記カラクリを作った井上外記正継は,その最たるものだろう。幕府の御鉄炮御用役を務めた井上外記は,プライドが高く激しやすい人物だったらしい。同役の稲富喜大夫直賢と術技のうえで確執を生じた。その後,稲富との和解の席上、またまた口論に及んでとうとう稲留喜大夫を殺害し,自らも横死してしまった。

私は,天才でなくてとても幸せである。そんな酸っぱい葡萄みたいなことを言って,自分を慰めてみる。天才になるためには,天賦の才能だけでなく多大な努力が必要だ。怠け者が天才になれるはずもない。日暮れて道遠しを知り,人生を振り返って見ると,勤勉ほど大切なものはないと気づかされる。