名工 井上関右衛門 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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 堺の名工 井上関右衛門

  関右衛門ブランドを作った男たち

  江戸時代初期から井上家は,代々関右衛門を名乗り,堺で鉄砲鍛冶を営み明治20年代まで約200年に渡って製銃を行ってきたという。洋式銃が隆盛を極めるようになった明治以降,井上家は,鉄砲鍛冶のほかに,金属加工業,醤油醸造業など家業の多角経営化を図り成功を治めた。現在も同家の鉄砲鍛冶屋敷は,同市北旅籠町に現存している。
  初代井上関右衛門は、伊予大洲藩加藤家のお抱え鉄砲鍛冶となり、5人扶持で士分に列せられた。当時,鉄砲鍛冶が士分に列せられることは珍しいことであり,しかも関右衛門という名乗りは,2代藩主泰興公から賜ったというから,初代関右衛門の製銃技術が優れていた証でもあろう。
  井上家は,堺に定着した当初は平鍛冶であったが,高い製銃技術や伊予の大洲藩の後援もあり急成長し,江戸時代末期に最盛期を迎え,北は福島から南は鹿児島まで60藩に出入りする日本一の鉄砲鍛冶となった。特に,10代目井上関右衛門寿次の功績は目覚ましく,その技術と製作した火縄銃の品質が高く評価された。その結果,「関右衛門」は鉄砲のブランドとなって取引先を全国に拡大していった
          井上関右衛門の一匁五分玉火縄銃
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            全長123.3㎝,銃身長90.8cm口径1.0㎝ 東京都登録 
            地鉄惣張  摂州住 井上関右衛門□□  花押
            井上関右衛門の銘の銃は多いが,花押まで印されたものは珍しい。
            本品は,安斎實杯優勝経験者から譲られたものだが,それ以外の来歴は               不明である。
  現在堺市北旅籠町には江戸時代初期に建てられた井上関右衛門家の鉄砲鍛冶屋敷が現存し当時の鉄砲生産現場をよく伝えている。なお本年になりこの鉄砲屋敷は井上家から堺市に寄付され5年以内に公開できるよう準備中とのことである。
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出典 堺市ホームページ
www.city.sakai.lg.jp