僕が美咲さんに出会ったのは、1年ほど前だった。
名前だけ聞けば立派な、有名な電気メーカーの孫会社で経理の仕事をしていた僕は、会社の生き残りをかけた、営業部強化プロジェクトに巻き込まれた。
辞令はまさに寝耳に水だった。
僕に辞令を渡した経理部の課長ですら、半信半疑なのが目に見えて分かった。
45歳を超えて、やっと課長になった彼は、未処理の書類が山積みになった机ごしに僕を覗き込んだ。
「僕が、、、、営業部ですか?」
「。。。。。。そうだ、お前がだ」
どんなにポジティブに評価しても人付き合いが得意と言われることは万に一つもない僕に、営業の仕事が務まるとはとても思えない。
彼の目は明らかにそう言っていた。
「今週中に引き継ぎをして、来週からプロジェクトに参加だそうだ」
「プロジェクト、、、ですか」
返す言葉が何も見つからず、ただ課長の言ったことを復唱してみる。
今までの僕の人生に出てきたことがない言葉だった。
「営業の部長にも挨拶しておけよ」
面倒くさそうにそう言い捨てると、課長は使っていたPCを待機状態にして、喫煙のために席を立った。
いつもは、昔は自席でもタバコが吸えたのにとブツブツ言いながら行くのだが、今日はやけにすんなりと席を離れていった。
空いた椅子と辞令の紙をしばらく交互に見てから、自分のデスクに戻るためにくるりと回った。
途端、そこにあった満面の笑顔に行く手を阻まれた。
「遠山さん!すごいじゃないですか!!」
子供のような、鼻にかかった甘い声を、いつもより1トーン上げて話しかけてきたのは、デスクが隣同士の同僚、村井翔子だった。
僕より1年早く、短期大学を卒業して入社しているので、1歳年下だが、1年先輩になる。
入社して3年、ずっと隣にいたので、会社のなかで唯一まともに会話できる相手である。
「すごい?」
彼女が立っているところを少し避けて、自分のデスクに向かう。
後ろから嬉々としてついてくる村井さんに、振り向きもせずに声をかけた。
「これって、もしかしてリストラの一種なんじゃないのかな。いらない人員を絶対に向いていない部署に回して、仕事ができないことを理由にクビにするんだよ。せめて希望退職させてくれたら、次の仕事探しが少しは楽なのに。。」
しゃべり終わる頃には椅子に座って、PCを待機状態から復元させて、一つ目のエクセルシートを開き終わっていた。
ところが隣の席から飛んできた、実際には社内回線を伝って僕のPCの画面の一番フロントにいきなり開いたメッセージボードが、僕の作業の邪魔をした。
『そんなことは絶対にありません』
濃いピンク色のボードに白い大きな文字でそう書かれていた。
メッセージボードは業務連絡ように社内回線で使っているもので、ボードの色や文字色、フォントも個人で設定できる。
少なくとも僕にメッセージボードを送ってくる社内の人間で、この濃いピンク色を使っているのは彼女だけだった。
『今回のプロジェクトは優秀な人材を集めてるって会社中で噂になっているもん』
相手にするのが面倒なので、メッセージボードをデリートしているそばから2つ目のメッセージボードが開いた。
フォントがさらに大きなサイズになっていた。
『わかったよ、ありがとう』
無難な薄いグレーに黒い文字で返信すると、村井さんが満足そうに微笑んでいるのが見えたので、やっと深くため息をつくことができた。
『頑張ってくださいね』
そう書かれた3つ目のメッセージボードには返信せずに、午前中は、いま進行中の仕事をどこまで片付けるか一つ一つのエクセルシートに付箋を貼り付ける作業をもくもくと進めた。
経理の仕事は月ごとに締め日がある。
にもかかわらず、その締め日を待たずに異動になるのは、正直迷惑だと思う。
ほかの部署がどうかは知らないが、少なくとも経理部ではそれぞれが、それぞれのやり方で仕事を進めている。もちろん最後に仕上がる決算書は会社のフォーム通りのものだが、そこに向かうアプローチがそれぞれで違うので、仕事は完全に分離されている。
未だかつて、経理部から異動でいなくなる人物がいなかったので、細かく考えたことはなかったが、自分の仕事を引き継いでもらうというのは、とてもややこしいことだと気づいた。
ひと段落着いたところで、昼食を取るためにPCを待機状態にして、あたりを見回すと、いつの間にか誰もいなくなっていた。
経理部の昼休みは無人になることが多い。
机の下から、カバンを引っ張り出すと、コンビニの袋を取り出した。
朝に買っておいたサンドイッチと菓子パンが入っている。
それを喫茶室で食べるのがいつもの昼食だった。
無機質な階段を2階分登ると、深いブルーの絨毯が敷かれた、喫茶室の扉が目の前にあった。
そんなに広くはないが、中にいくつかの自動販売機と、隅っこに給湯器付きの水道がある。
昼飯時なのに、なかで昼食をとっている人間はいなかった。
だいたいいつも貸切である。
つまり、僕以外の人間は、どこか外でランチを楽しんでいるわけだ。
もちろんそのほうが気兼ねなく昼食を食べれるので、僕としてはありがたいことだった。
喫茶室のドアを開けようと、ドアノブを回したその時、背後から野太い声で呼ばれた。
「遠山じゃないか」
その声の主を僕は知っていて、知っていたから振り向きたくなかった。
聞こえなかったフリをしてそのままドアを開けて中に入ってしまおうか、一瞬悩んだ。
悩んでしまったがために、声の主は驚くべきスピードで、僕の真後ろまでやってきた。
「聞いたぞ、異動だってな」
同期入社の中でも、体育会系で通っている彼は、ガハハとしか表現しようのない声で笑いながら、僕の肩に手をおいた。
「関口。。。」
首をひねって振り向いた時にずれたメガネを、右手の平で押し戻す。
背は高くないが、上半身がの筋肉がワイシャツ越しでも見て取れた。
「俺もなんだよ。新設の営業3課」
そこまで言って関口は僕が手に持っていたコンビニの袋に視線を落とした。
「お前もこれから飯か。どうだ、たまには一緒に食いに出ないか。近くにうまい定食屋があるぞ」
営業の人間はみんなこうなのかと思ってしまうほど、関口の勢いには逆らいようがなかった。
正直、誰かと一緒にご飯をたべるなんてごめんだった。
食べるペースも気を使うし、話を合わせながら取る昼飯は疲れるだけだ。
「残念だけど、もう買ってあるし。。。」
無駄だと分かっていても、一応抵抗してみるが、関口にはこれっぽっちも通用しなかった。
そんなものは明日食べればいい、とガハハと笑って、僕の背中をバシバシと叩いた。