彼女が運転するフォルクスワーゲン・ビートルは、ゆっくりと路肩によると、音もなく停車した。
夕食を食べたあとはいつも、僕の住むアパートのごく近くまで送ってくれる。
楽しかったディナーの余韻に浸りながら、彼女と二人きりの空間を楽しむ、貴重な時間だ。
ハザードランプのスイッチを入れると、車内に、カチッカチッと断続的な音が響く。
スイッチから離れた彼女の綺麗な白い指が空中をためらうようにさまよい、そっと僕の肩に置かれた。
丁寧にマスカラを塗られたまつげがゆっくりと瞬くと、何かを問いかけるように僕をじっと覗き込み、僕はその引力に吸い込まれるように彼女に顔を寄せ、口付ける。
僕はいつも、柔く生暖かい感触に溺れ、我を忘れて彼女の唇をついばんだ。
幸せな時間だった。
例え、それ以上のことが何も起こらないと分かっていても、ほんの瞬間、彼女を独占していることに心が満ち足りた。
お互い唇の隙間から吐息が漏れる。
左手で彼女の後頭部を撫でると、彼女の両腕が僕の首に回された。
このまま彼女を僕の部屋のベッドに連れて帰りたい。
何度も欲望がもたげては、必死に理性を押し通す。
なぜなら、彼女がこれ以上は望んでいないことを僕は知っているからだ。
困らせたくない、嫌われたくない、時々夕食をともにするこの関係を壊したくない。
だから僕の想いを口に出して伝えた事はない。
伝えてないくても彼女にはバレバレだと思うけど。
ふいっと、彼女の腕から力が抜け、唇が離れた。
潤んだ瞳は僕を見つめていたが、それは帰る時間がきたことを告げる合図にほかならなかった。
「お休みなさい」
そう言って、もう一度軽く口付けると、ドアを開けて車から降りた。
僕がドアを閉めると同時に彼女がウインドウを開ける。
「お休みなさい。またね」
「うん、メール待ってるよ」
彼女は返事変わりに柔らかく微笑むと、シフトをドライブに入れ替えた。
ブレーキランプが消え、車がゆっくりと動き出す。
真紅のビートル。
街で見かけるたびに彼女かもしれないと必死に車内を覗き込んでしまう。
ドライバーが彼女でないと知ったときに、自分がどれほど彼女に恋焦がれているのか気づいてしまう。
だけど、彼女は気まぐれだ。
週に2回もディナーに誘われることもあれば、3週間も4週間も放って置かれることもある。
基本的には僕からは連絡しない。
彼女がどんな状況にいるか、わからないからだ。
ただ、ひたすら彼女からのメールを待つしかなかった。
もうこのままメールが来ないかもしれない。
彼女との時間はひと時の夢として、終わってしまったのかもしれない。
そんな不安にいつも苛まれた。
だから、彼女からのメールを知らせる着信音がなると、仕事中でも飛び上がって喜びたくなってしまう。
僕の思いだけがどんどんと大きくなってしまっているのではないか。
そんな僕の様子を彼女は面白がってからかっているだけなのかもしれないと思ったこともある。
でも、それならそれでいいのだ。
彼女が僕の様子に満足してくれているうちは、また夕食に誘ってくれるだろうから。
気まぐれにでもキスを許してくれるから。
僕が「ルール」を守ってさえいれば。
ルール。
それは、彼女の家庭を壊さないこと。
。。。。。。そう、彼女には夫と娘がいる。