こんにちは、もうすぐ二月も終わりですね~




逃げる、、、逃げる、、、です(笑)




昨日、息子と図書館にいきました。




息子が、




「モチモチの木」のお話を公文の教材で少し読んだらしくて、




1冊全部読んでみたい!というので、借りてみました。




懐かしい、本当に懐かしい、




「モチモチの木」 (斎藤隆介・作  滝平二郎・絵)




いまの小学校の教科書にも載っているのかな??




私も自分が小学生の時に国語で習って、とても好きなお話でした。




そして、長い長い時間を経て、また読んでみることにしました。






一人で「セッチン」に行けない甘えん坊の五歳の豆太を幼き日の自分に重ね、




また、色白で、気弱な部分を息子に重ね、




優しく、愛情いっぱいに豆太を育てている、じさまを




今は亡きおじいちゃんや私の父と重ね、




読み終わる頃には、涙がいっぱいにあふれて、




文字が読めないくらいになっていました。




私が小学校の国語の時間で習っていた時は、




おじいちゃんも、すきま風で寒かったその古い家も、




父も、、、全て健在だった。




冬休みには、必ず一人で暮らすおじいちゃんの家に行き、




絵本の中の豆太の様に、薄い布団で




おじいちゃんとくっついて寝た。




一枚の布団で寝るものだから、背中と背中の隙間が寒かった。




それこそ、「セッチン」も外にあって、私もその都度おじいちゃんを起こしていた。




あのころの私は、「モチモチの木」のストーリーに




どこかしら自分に近いものを感じて、




そして、心のどこかで、




いつかおじいちゃんを失ってしまうことの不安を感じながら、




子供なりに切ない気持ちで読んでいた。





そしていま、、、




おじいちゃんも、父も、すきま風で寒いその古い家も、




失くしてしまった私が読むと、やはり切なすぎる。




それだけ、時間が経ったのだ。




それだけ、進んできたのだ。




それだけ、生きてきたのだ。




切ないながらにも、読み進めていくと、




言葉の一つ、ひとつに奥行きがあるように感じてくる。




それはきっと、今まで生きてきた自分の時間と、経験が




物語を立体的にしてくれるのかも知れない。







生きていれば、当然のことながら、




いいことも、わるいこともある。




そのときは、目のまえのことに精一杯で、分からないこともあるけれど、




時間が経つと、その経験は自分自身にも奥行きをつけてくれるんじゃないかと思う。






ただ、小学生のころの私と変わらない気持ちで読んでいるところもあった。




じさまが作ってくれる、モチモチの木の実でつくるおもち。




あのころと同じ気持ちで、「食べたい!!」




モチモチの木に年に一回、ひがともる。




「私も見てみたい!!」




幻想的なモチモチの木を頭いっぱいにイメージしながら、




ひとり本を閉じた。






図書館に返却するまでには、息子に心を込めて読んであげようと思う。




Naoko