価値観の違いや、態度批判に頼る以外にも、「自分の意見」を守る方法がある。
 それは、「これはあくまでも自分の個人的な意見である」と表明しておく方法である。
 この表明を「無視」して自分の考えを批判してくる相手に対して、「人の考えを認めないやつだ」「他人の意見を尊重すべきだ」などといった妄言をぶつけて中傷することもできる。

 どんな優れた思想に触れても自分の見解は変化させる必要などなく、また非難されるいわれもないのだ、なぜならばこれは自分の個人的な意見だからだ、という安心感は、テレビニュース等から溢れ出す、物事の表面をなぞるだけの浅薄な「考え」の下品な組み合わせを「自分の意見」として誇らしげに持ち歩くくせに、決してそれを洗練しようとも磨こうともしない、いささか怠惰で知的羞恥心を欠いた者たちにはお似合いの感情かもしれない。
 同じような番組等を同じようなタイミングで閲覧し同じような影響を受けているがゆえに、同じような判断で同じような間違い方をしでかすこの「民主主義的な連中」が、「考え方は人それぞれ」「自分の意見」などと口を滑らせながらも、やはり結局のところ、「各々の個人的な意見に口を挟むべきではない」という凡庸な珍説には賛同するという点において、見事なまでの意見の一致ぶりを演じてみせる。
 やや、これは奇遇ですな、私もあなたに同意します、やはり個人が持つ意見は自由ですな、これも個人の意見ですが、というわけだ。
 これを滑稽と呼ばずして何と呼ぼう?
 断っておくが、これは彼らの名誉を毀損する行為ではない――この種の発言の中で、彼らは彼らの「毀損されるべき名誉」を自ら放棄しているかに見えるからだ。

 なぜ、口を挟まれたくないはずの「考え」を人の前にさらけ出すような失態を演じてしまったのだろうか。醜く、劣悪で、不出来なものを人に向けて差し出せば、反発や批判を受ける可能性があるのは当然ではないか。
「自分個人の考え」であるから免罪されるのだという信念は、今日、驚くほど強く信じられている妄想の類である。

 仮に、「私は○○町の部落の人はバカでクズで死ねばいいと思う、ただこれは自分の個人的な意見だ」との発言を繰り返せば、法的なものまで含めて責任を負うだろう。そこまでいかなくとも、ある種の考えを持ったり、持っていることを表明すること自体が、他の誰かにとって不愉快で迷惑であることはよくあり、場合によっては訴訟等に発展するということが、ごく短時間の簡単な思考で想定できないのだろうか?
 こんなことにも思い至らない「個人の」「考え」とは、一体何であろうか?

 自由主義的な呪いにかけられた無能が、無能であることを武器にしゃあしゃあと発言すれば「罰が当たる」のは当然のことである。
 付け加えて良いならばここでこう述べておこう。
「これは私の個人的な意見である」と――。