少々長いが故に、主文と従文との関係が曖昧になることから、果たして著作権法上の「引用」に当たるのかに関して、わずかばかりの不安が残るものの、以下、引用する。
【もうあと何年もしないうちに、あの「バスチーユ奪取」の叫びが未知の社会的変動をフランス全土に波及させようとしていた革命前夜のパリで、ダンテの『神曲・地獄篇』の散文訳を幾年もかかって推敲しながら、その古典的教養の豊かさと弁舌の爽やかさ故に文壇の注目を集め、啓蒙時代と呼ばれる十八世紀フランスの文化的支柱ともいうべきヴォルテールの死後、名高い『メルキュール・ド・フランス』誌の文芸時評を担当しはじめたアントワーヌ・リヴァロール Antoine Rivarol(一七五三-一八〇一)は、もし彼が、ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募して第一等となった『フランス語の世界性をめぐる論述』Discours sur l'Universalite* de la langue franc*aise(一七八四)の著者でなかったとしたら、貴族に絶望して人民による王政維持を主張する奇妙な「王党派」の論客として、革命を呪い、人権宣言を愚挙ときめつけ、当時としては独創的な「フランス語辞典」の構想をいだきつつも亡命さきのドイツで客死せざるをえなかった挿話的な人物にとどまり、人びとの記憶から次第に薄れて行ってしまったに違いない。】(蓮實重彦『反=日本語論』ちくま学芸文庫 p202-203、リヴァロール神話より。*部分は引用者によるフランス語表記の意)
この美しい筆致でしたためられた文章から得られることは、リヴァロールなる人物が「人びとの記憶から次第に薄れ」ずにいられたという偶発的かもしれぬ特権への記憶ではなく、もっと単純に、蓮實重彦氏によるこのたった1つの文が、500文字近い文字によって構成されているという事実への子供らしい驚嘆である。
なるほど蓮實重彦氏は独特の文体で書かれるし、その明晰性に裏打ちされた修辞学上の作法によって、一文がかなり長いことが多いといまさら確認するまでもないが、原稿用紙1枚をゆうに超えるほどともなれば、そうそうお目にかかれるものではないだろう。
しばしば大衆によって口にされがちな「本当に良い文章は簡潔に書かれている」といったような陰鬱な虚構に対するこれ以上ない明白な反例として存在するかのごとく、引用した文は流麗な文体によるものというほかなく、かつ、表現すべき内容をほぼ必要十分に表してもいる。
もし引用した文章を、少しでも冗長であるとか、晦渋であるとか感じるのだとすれば、それは読者がいかにも「読書」という習慣から離れすぎてしまっているか、あるいは大学生水準に到達しない程度に平易すぎる文章にしか触れてこなかったのであろうことが容易に看過されてしまうであろう。
こういった文章をごく自然に楽しみながら読み、少々の感想を述べることを苦としないレベル、それが日本人として最低限の教養レベルだろうと、ふと感じた次第である。
【もうあと何年もしないうちに、あの「バスチーユ奪取」の叫びが未知の社会的変動をフランス全土に波及させようとしていた革命前夜のパリで、ダンテの『神曲・地獄篇』の散文訳を幾年もかかって推敲しながら、その古典的教養の豊かさと弁舌の爽やかさ故に文壇の注目を集め、啓蒙時代と呼ばれる十八世紀フランスの文化的支柱ともいうべきヴォルテールの死後、名高い『メルキュール・ド・フランス』誌の文芸時評を担当しはじめたアントワーヌ・リヴァロール Antoine Rivarol(一七五三-一八〇一)は、もし彼が、ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募して第一等となった『フランス語の世界性をめぐる論述』Discours sur l'Universalite* de la langue franc*aise(一七八四)の著者でなかったとしたら、貴族に絶望して人民による王政維持を主張する奇妙な「王党派」の論客として、革命を呪い、人権宣言を愚挙ときめつけ、当時としては独創的な「フランス語辞典」の構想をいだきつつも亡命さきのドイツで客死せざるをえなかった挿話的な人物にとどまり、人びとの記憶から次第に薄れて行ってしまったに違いない。】(蓮實重彦『反=日本語論』ちくま学芸文庫 p202-203、リヴァロール神話より。*部分は引用者によるフランス語表記の意)
この美しい筆致でしたためられた文章から得られることは、リヴァロールなる人物が「人びとの記憶から次第に薄れ」ずにいられたという偶発的かもしれぬ特権への記憶ではなく、もっと単純に、蓮實重彦氏によるこのたった1つの文が、500文字近い文字によって構成されているという事実への子供らしい驚嘆である。
なるほど蓮實重彦氏は独特の文体で書かれるし、その明晰性に裏打ちされた修辞学上の作法によって、一文がかなり長いことが多いといまさら確認するまでもないが、原稿用紙1枚をゆうに超えるほどともなれば、そうそうお目にかかれるものではないだろう。
しばしば大衆によって口にされがちな「本当に良い文章は簡潔に書かれている」といったような陰鬱な虚構に対するこれ以上ない明白な反例として存在するかのごとく、引用した文は流麗な文体によるものというほかなく、かつ、表現すべき内容をほぼ必要十分に表してもいる。
もし引用した文章を、少しでも冗長であるとか、晦渋であるとか感じるのだとすれば、それは読者がいかにも「読書」という習慣から離れすぎてしまっているか、あるいは大学生水準に到達しない程度に平易すぎる文章にしか触れてこなかったのであろうことが容易に看過されてしまうであろう。
こういった文章をごく自然に楽しみながら読み、少々の感想を述べることを苦としないレベル、それが日本人として最低限の教養レベルだろうと、ふと感じた次第である。