フィギュアスケート妄想・疾走者

フィギュアスケート妄想・疾走者

どこかの民族では、数の概念は「1、2、たくさん」しかなかったとかいう話を聞いたことがある。

一人でも、二人でも、大勢と組んでも、高橋大輔はかっこいい。


もうすぐ年が明けてしまう、その前になんとかスペシャルビューイングの感想を書き上げてしまいたいというので、紅白歌合戦を横目で見ながら書いてます。


例によってネタバレありなので、行空けます。


(撮影可だった画像、修正なし版)




















温羅と吉備津彦の二人が、別々の場所にいながらお互い相手のことを思い歌う場面から少し経って。

ふと温羅を見ながら浮かんだ思いつきがあった。

「温羅は死ぬことで、吉備津彦に人生を与えたのか?」と。いや吉備津彦のために死にたかったわけではないだろうが、結果的にそうなってしまったような感じだなと。


おそらく二人の歌の影響だと思う。正確な歌詞は覚えていないが、お前は俺、俺はお前という内容の、自分達は似ていて通じているという思い、そして一方でお互いはあべこべだ、という意味の言葉があったはず。

その、あべこべがひっかかったのだ。

吉備津彦には自分の人生がなかった。役割を果たす傀儡であり、心なき存在だった。生きてはいたが、心を動かすことすらない、人としての生ではなかった。

一方、温羅の前半生は濃厚だ。白霧族の王子として、吉備の里の協力者であり縁者として、他者との間に様々なつながりを持ち、その中で自分が果たすべき役割を模索した。役割を負担に思うこともあったが、そこから喜びもまた得ていた。多くの人とつながりあうことで、温羅としての生を充実させていた。


しかしそれが反転していく。

温羅が大事にしていた人とのつながり、自分の生を支えていたものは、一つまた一つ失われていく。

一方、吉備津彦は温羅と出会うことで他者に、思いを重ね合う存在に気がつく。少しずつ他者とつながり、自分に心があることを知り、つながりの意味や重さを知っていく。翁嫗に育てられた時間は何年もあるが、「死なせることはできない」という思いを抱けるようになったのは温羅と出会ってからだ。

あったはずのものが消えていく温羅、存在していても意識していなかったものが意味を持っていく吉備津彦。白が黒に、黒が白に変わるオセロゲームのように反転していく。


そして、前半生と言えるようなものがなかった吉備津彦と入れ替わるように、温羅は後半生、つまり人生そのものを無くしてしまった。

そんなことが頭にあったのだ。



しかし温羅は死ぬ前に、吉備津彦に役割を与えた。「自分のことを語り継げ」と。

温羅が千秋と何度か歌う歌では、「この城に生まれただけ」というフレーズがある。幼い頃の温羅は、王としての役割を重荷と感じていたことが分かる。しかし、それを自分のものとして引き受け、苦しい状況でもどう役割を果たすか考えて進むこと、それが温羅の生き方だった。結果として愛するものを失い続けることになっても、それが彼の生だった。

だから温羅は、吉備津彦に役割を与えた。自分が出来うるなら果たしたいであろう(しかし自分では決して行えない)、鬼となったものの末路を語る役割を。

人間は、他者と共に生きるために役割を引き受け、それを通してこそ人としての生を生きることが出来る。役割を引き受けることは苦しいけれど、その中でより人とつながりあうことができる。そういうことなのだろうか?

なんてことを頭の隅で思いながら、スペシャルビューイングを見ていたのである。


今回、最初の登場時以外高橋大輔にソロがなく(スケートでも歌でも)、増田貴久にソロがあるのは、温羅という人が人との間に生きる「人間」であり、吉備津彦は人との間にしっかりとしたつながりが持てていなかったこと(犬猿雉とまた出会えれば一緒に行動しそうだけど、会える保証はない)、それを示す意図もあったのかな?





なんかまだ書けそうなんだけど、書き続けると年を越してしまいそうなので、このあたりで終わることにします。

みなさま、良いお年をお迎えください。














おまけというか年忘れネタ。

実をいうと「蔵のある街」の出演者の挨拶付き試写会に行ってたんだけど、そのときスマホのカメラ壊れてまして。


撮影したけど、ボケボケ画像で。

でもさーっ、貴重な生で大輔さんを見れた体験の画像だったから捨てられなかったのよ。

ということでここにアップして、元画像は消します。

見る価値ないものですが、まあ、元々このブログ自己満足なので許してくださーい。