<松田選手死去>俊輔、カズ、岡田前監督…サッカー界に衝撃
(毎日新聞 - 08月04日 20:50)
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沈鬱な表情で報道陣に語った中村俊輔選手=長野県松本市の信州大医学部付属病院で2011年8月4日午後5時49分、小田中大撮影
 チームをJリーグに押し上げる夢半ばに亡くなった松田選手。34歳の早すぎる訃報に、かつてのチームメートら関係者はショックを隠しきれなかった。
 J1の横浜F・マリノスで同僚だった元日本代表MF、中村俊輔選手は4日、練習後に自家用車で病院のある長野県松本市に見舞いに向かう途中、悲報を聞いた。「非常に厳しい状態とは聞いたが『もしかしたら会えるかも』と思ってきた。マツさんは、ああ見えてさびしがり屋なので……」とうつむいて話した。 中村選手によると、松田選手は松本山雅のユニホームとスパイクを身に着け、「すぐに起きてサッカーをしそうだった」という。横浜マから松本山雅に移籍する際、中村選手が「チームをJ2に上げるのか」と尋ねると「バカ、J1だよ」と力強く語ったことが印象に残っていると振り返った。
 また、病院に駆け付けたJ2横浜FCのFW三浦知良選手は遺体と対面後、「自分より10歳年下だが『カズちゃんがやめるまでやめない』と言ってくれて刺激になっていた。今日はお母さんに『本人の分までがんばって』と言われた」と話した。
 印象に残っている試合に95年のチャンピオンシップで当時、三浦選手のヴェルディ川崎と、松田選手の横浜マの試合を挙げ、「世界に通用するディフェンダー。優秀で、相手としてはやっかいな選手だった。ずっと一緒にやってきたので、とても信じられない」と言葉少なだった。
 03年から06年途中まで横浜マ監督を務めた岡田武史・前日本代表監督は「マツはマリノスが2年連続(03、04年)でJリーグ年間王者になった時に一緒に戦った仲間。中心選手として貢献してくれ、自分にとっても、とても思い入れの強い選手だった。これからの活躍を期待していたので本当に残念でならない」とコメントした。
 この日は東京都内で日本代表メンバーの発表会見があり、日本サッカー協会の原博実・強化担当技術委員長は「彼の存在感は大きかった。サッカー仲間として、日本代表、日本サッカーをもっともっとレベルアップしたい」と誓った。【古川修司、小田中大、江連能弘】


サッカー=松田選手死去、トルシエ氏「34歳の死は悲劇」
2011年 08月 4日 16:25
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 [東京 4日 ロイター] 日本中が熱狂した2002年のワールドカップ(W杯)日韓大会で、ベスト16入りに貢献したサッカーの元日本代表DF松田直樹選手が4日、34歳の若さで帰らぬ人となった。
 松田選手の訃報を受け、日韓大会で日本代表の指揮を執ったフィリップ・トルシエ氏はロイターの取材に応じ、「こんなに若い選手の悲報に接することはつらすぎる。大きなショックを受けている。彼は素晴らしい男で、彼とは固い絆を築けていた」と衝撃を隠せない様子で語った。
 また「信頼できる強い選手で、2002年のW杯では日本代表のキープレーヤーだった。日本サッカー界にとっては非常に悲しい知らせになった。誰もが復活を願っていただけに、34歳で突然、命を落とすことは悲劇としか言いようがない」と松田選手の早すぎる死を悼んだ。
 かつて松田選手が所属したJリーグ1部(J1)の横浜Mも嘉悦朗社長の名で、「クラブハウスは深い悲しみに包まれ、監督以下、選手、スタッフ、すべての関係者が、突然の悲報に言葉を失っている」などとするコメントを発表した。
 今季から日本フットボールリーグ(JFL)松本山雅FCに所属していた松田選手は2日午前、長野県松本市内の梓川ふるさと公園のグラウンドで練習中に倒れ、病院に救急搬送。人工心肺装置で血流を維持する状態が続き、4日午後意識が戻らないまま死去した。
 松田選手は1995年から2010年まで在籍した横浜Mで385試合に出場。2000年にはトルシエ氏が率いる日本代表で代表デビューを果たし、通算40試合に出場した。


カズ決意!彼の分まで現役頑張る!
(サンケイスポーツ - 08月05日 08:10)
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 横浜FCのFW三浦知良は夕方、松本市の病院に到着。黒スーツに黒ネクタイ姿で約5分間、冷たくなった松田さんと対面した。「とてもいい顔をしていた。これは本当のことなのか。簡単に言葉もかけられなかった…」。無念の表情を浮かべた。 破天荒で豪快。ややもすると礼儀知らずでやんちゃ。そう見られがちだった松田さんだが、カズは言う。「練習試合では、いつもあいさつに来てくれる」。豪快さの中に潜む、繊細な性格を見抜いていた。今年2月に練習試合で会ったときには、「『カズさんが(現役を)やめるまで、ぼくもやめませんから』と言われた」という。「10歳年下の後輩が、ぼくを目標にしてくれていたなんてね。ぼくの方こそ、いつも刺激を受けていた」と話した。 松田さんの母親からは「(松田)本人の分まで頑張ってください」と声を掛けられた。J現役最年長の44歳は「あとどれだけ(現役を)やれるかわからないけど、頑張りたい」と松田さんの分までプレーする決意を口にした。

2011年8月4日 19:32 (時事通信)
「松田直樹は幸せでした」=ファンに宛て、家族から手紙-サッカー
 サッカー元日本代表の松田直樹選手の死去を受けて開かれた記者会見の席上、同選手の家族からファンに宛てた手紙が、松本山雅の大月弘士社長によって公表された。内容は次の通り。
 「今回、このようなことになりましたが、松田直樹はよく頑張ったと思います。関係者各位、選手、サポーターの皆さまから温かい応援のメッセージをいただき、家族も直樹も勇気づけられました。ありがとうございました。直樹は横浜Fマリノスで16年間、その後、現在の松本山雅で8カ月になりますが、大切な仲間と大好きなサッカーをすることができました。本当に松田直樹は幸せでした。みなさま本当にありがとうございました」。 

2011年8月5日 08:00 (サンケイスポーツ)
腐れ縁ヒデ悲痛「もうマツに伝えた」
 02年日韓W杯16強など、松田さんと数々の栄光を歩んできた元日本代表の同僚、中田英寿氏(34)は、「オレはもうマツには伝えたから…。わざわざ他の人に言うことじゃない」とし、4日、公の場でのコメントはしなかった。関東西部に滞在中、関係者を通じて訃報を知った。
 U-16日本代表が発足した当時から、ともに歩んできた。そこからA代表に残ったのは、2人だけだ。 中田氏は「腐れ縁」と表現し、松田さんは「ヒデを殴れるのはオレだけ」と語っていた。中田氏が主催した今年1月の慈善試合(宮崎)でも共演。中田氏の言葉は、2人の特別な関係を表していた。

サッカー=松田選手急死、FIFA会長「悲しみに沈んでいる」
2011年 08月 5日 09:30
 [4日 ロイター] 国際サッカー連盟(FIFA)のゼップ・ブラッター会長は4日、元日本代表DF松田直樹選手の訃報を受け、日本サッカー協会(JFA)の小倉純二会長にお悔やみの書簡を送った。FIFAが公式サイトで発表した。
 ブラッター会長は「日本代表の伝説的なDFである松田直樹選手の悲劇を知り、悲しみに沈んでいる。FIFA、ならびに世界中のフットボールファミリーを代表して、日本サッカー界、そしてなによりも松田直樹選手のご友人、ご家族にお悔やみ申し上げたい」と哀悼の意を表した。
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