遺伝性疾患について、
発症に際して、親が子が相互に気遣ってしまう…という話。
なるほど、そうした疾患でなくてすら、色々と気を遣う場面はある。
親は、私が姉妹の中では丈夫ではないのを、弱く生んでしまったと気にし、
私は、親にそう言われ謝られてしまうことを気にする。
一般に一括して『障害受容』と呼ばれる、
(私はこの言葉は嫌いなので本人サイドの場合しか基本使わない)
中途障害における本人の障害受容、家族のうけとめ、
先天障害における家族のうけとめ、
その後成長してからの本人の自分の障害のうけとめ。
全体として一大ジャンルと して業界内で成立している。
発達障害臨床においては、
やはり最大はわが子の障害に対する母親のうけとめ。
近年では父親もやっと。
そしてきょうだい関係の問題も、根は同じ部分が大きい。
本人の障害の理解・うけとめという話はもっと最近言われだしたこと。
これは高機能自閉症スペクトラムとかの概念が比較的新しいから。
でも私は、いつもひっかかり、納得がいかない。
なんで、子どもの障害について、受容だなんていうことを
平然と語ったりしてるのか。
本人に何の責もなく(親にもないけど)、
子ども自身ののパーソナリティと切り離しようのないことについて、
わざわざ親に受容してもらわんといかん子どもの身にもなってみろよと。
発達障害について一番割を食っているのは本人なのに、
その上、こんな僕でごめんなさい、僕が生まれてきてごめんなさい、
そういわせるのか?
…勿論、受け入れ難い親の心情を否定するわけじゃない。
でも、いつまでもずっと言われてしまったら、子どもはどうするんだ。
僕が僕である、というだけで。
例えば、自閉症のP男が、自閉症でなくなったら、
もはやそれは完全なる別人でしかない。
別人と取替えっこの勢い。
でも、
『明日の朝起きたらP男が自閉症でなくなってたらいいのにと思う』
という母親の言葉は誰も非難できない。
でも、言われたP男の気持ちは、誰も気遣わ ないの?
僕じゃない方がいいの?
大学院生で、
子の障害に対する親の受容を修士論文のテーマにする院生さんは、
殆どが親自身、つまり当事者。
ちなみにきょうだい関係をテーマにするのはきょうだい児が多い。
考えたい気持ちも大事だとも思う。
でも、誰もそこについて言及してない。
なんで?
受容される子の身になってみる人はいないの?
とかとか。
いろいろ考えてしまう。
相違点は、中途発症の形をとるか先天性のものであるか、とか、
パーソナリティとの不可分性の問題だとか、
自己認識能力への影響だとか、その辺色々あるだろうけれど。
う~~ん。