情熱と繫がる笑顔 | 空の太陽が落ちる前に

情熱と繫がる笑顔

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徳間ジャパンさんが創立50周年へ向けてのチャレンジとして発行した
「微風(bi-fu)」というフリーマガジン。
先週その事を知って、出張先の札幌でアリオまで足をのばして探して来た
(札幌中心部のピヴォのタワレコさんでは予定分終了してました!)んですが、
その後名古屋や静岡、梅田茶屋町のタワレコを覗いてみたんですがいずれも配布終了
みたいでフリーペーパーのラックには見当たらず。みなさん素早いなー(イナゴ軍団来襲?)
って思わされました(笑)

この創刊号の記事の中心になっているのは徳間ジャパンさんの45周年記念として
今から2年前の2011年の1月9日から4週に渡って放送されたラジオ番組の
「近田春夫と篠木雅博の徳間ナイトニッポン」の誌上再録なんですけど、
この番組を聴いていなかった僕には初見の貴重なお話ばかり。
徳間ジャパン現社長の篠木さんと言えばメジャーデビュー先の決まっていなかった3人の受け入れを
「相談に来てくれたアミューズのスタッフの情熱」に感じ入って引き受けてくださった方であり
徳間ジャパンでの3人の最初の担当者。
この文章を読んで改めて知ったんですが篠木社長は、性急に売り上げだけを求める事をせず、
新しい事、面白いことをやっていく姿勢と何よりも仕事への情熱を大事になさる方らしく
演歌や歌謡曲(山本リンダまで(!)からロックやテクノまでのアーティストを網羅する
徳間ジャパンさんのユニークな社風を表しているような方なんですね。

そして対談相手の近田春夫さんはご存知の通り、日本のポップミュージック史を
語る資格と実績を持つ稀有な存在。
以前から圧倒的な音楽的背景と深い知識を持った近田さんのような方が、毎回ご自身の
コラムの中で公正な立場で3人とその音楽に対して好意的な評価をくださることは、
僕のような音楽知識の無い人間には、貴重で嬉しくて。勇気付けられてばかりです。

この対談は年代を追って徳間ジャパンを代表する曲を聞き、エピソードを語るものなんですが
3人にまつわる話には一番時間も想いもあったようでその一部はネットにもあがっていましたし、
この誌面でも一番長く語られています。



このネット部分を書き出すと次の通り。

近田 僕はねえPerfumeは覚えている事が二つあって、最初はまだブレイクする前なんですけれども、
   昼間に代官山を歩いてたら、あのUNITってクラブがあるんですけれども、そこ昼間ねえ、
   そこの前に人がいっぱい行列しているんですよ。
   で、昼間こんなとこで何やってるんだろと。その行列してる人達の層が探れなかったんですね。
   あの例えばイベントによってこう、いる人の格好見て分かるじゃないですか。
篠木 そうですねえ。はいはい。
近田 それがどういう人なのか分からない、男もいるし女もいるし並んでる人がいっぱいいたんで、
   「あのー、すいません今日ここ何があるんですか」って言ったら、「今日はPerfumeですよ」って言わ
れたんですよ。
  その時その名前知らなくて、でもPerfumeってのがあるんだっていうのを僕はまず最初に残った印で。
篠木 はいはい。
近田 それからしばらくしてそのPerfumeって名前を覚えていて、ある日ラジオでチョコレイト・ディスコ
   初めて聴いたんですよ。その時にそのねえ、キックとベースのバランスが凄く良くて、
   「ああ日本のJPOPでここまで低音のかっこいいやつは他にねえなあ」と思って、それで気になって、
   そのPerfumeってのをCDショップへ行ってチェックしたんですよ。
   したらそっからしばらくしたらあのポリリズムとか凄い売れてきた。
  「ああ俺もやっぱり、あれはさすがにあれだなあ、自分もあの時気付いた自分も間違ってなかったなあ」
   と思ったんですけども。
   で、その後に、色々知ったら実はアミューズで、しかも自分が昔あのジューシーフルーツっていう
   昔のテクノやってた時にやってた、その時のそのマネージメントとかのシステムがそのまんま
   そのPerfumeに移っていたらしくって、それで昔僕が作っていた「ジェニーはご機嫌ななめ」っていう
   そのジューシーフルーツ用の曲を彼女達がやっててくれた、それは全くその時知らなくて、
  そんな事で何か不思議な縁があったりして、それ以来ずっと僕も興味があって聴いてるんですけども。
篠木 そうですか。
近田 どんどん進化していますよね、あの声のあの人工的なモジュレーションとかについても、
   昔はなんかそのなんか割とその、「人工的な声に聞かせる」ような事ってのが多分重要だったと思う
   んです。
篠木 そうですよね。ええ。
近田 今はまた「あり得ない位自然なもの」ってのを目指してるような感じに段々なってきてまして。
篠木 えーいやいや、さすが。
近田 だから本当に何て言うんだろ、いい声になってますよね、あの、不思議な声じゃなくてあれとして、
   だから色んな人が同じような事真似しても、ああいうものとして何がいい声なのかって、
   そこんとこのその詰めっていうのがやっぱり、中田ヤスタカさんは本当に凄いなあっていうのは、
   改めてこの「ねぇ」を聴いて思いましたね。
篠木 そうですね。あの、経験値の無いパターンなんですよね。
近田 そうなんですよね。あの例えば、一曲だけね、企画物で何かそういう、オートチューンっていうんです
けども、ああいう声をちょっと加工するんであの出てるっていう、そういう曲はあったりとか、
   或いはヒップホップなんかで一人の声でやってるのはあるんだけれども、
   ああやってコーラスグループで、その声全体に対してモジュレーションかけてそれが一つの完成され
た肉声として、なんか面白いものになってきてるってものの進化をずっと見せてるグループっていう
か、そういう表現者って無いんですよね。

この時のお話は「ねえ」を聞いての言葉だったんですが、その後「Spring of Life」の時には

  「いまのところアイドルと“ちゃんとしたトラック”を両立維持させるのに成功してきたの
   は『Perfume(中田ヤスタカ)のサウンド』だけだ。間違いない。
   それはこの人たちと他のアイドルでは自身に課して来た音楽的敷居の高さの桁は違うのではない
   かということでもある」
  「肝心の新曲。その持つ力強さ、重さ、すなわち“男性性”なのだが、これを備えるJポップは
   本当に稀なのである。そういう意味を私はこの曲から感じたのだった。
   とても挑発的なスタンスだと思った。」

っていう言葉や「未来のミュージアム」に対しては

  「この人たちもこうなるとテクノでもなんでもねーっ!て感じで、その状況がまさに
  音にもなっているワケだが、実は彼女達はデビュー以来、一度も電気臭くなったことが無い。
  そのイメージはこれからも大切にするべきだ」

っていう言葉などなど・・・
本当に僕達には嬉しい限りの的確な評価ばかりです。
そんな音楽界の重鎮と去年の移籍までの7年間、3人の成長と苦楽を共にした徳間ジャパン社長の
篠木さんのお話。それだけでも楽しいんですがこのフリーペーパーには
他にも見所がありました。
その一つは誌面中程の徳間ジャパンさんの歴史のページ。
本当にいろんな歌手やグループ方のヒット曲の受賞暦や成績と徳間ジャパンの会社の来歴が
年度順に並んでいるんですが、2007年以降の部分にはPerfumeの名前がずらりと並びます。
ポリリズムの発売から始まった3人のシングル各曲とアルバム、DVDそれぞれのゴールド認定
プラチナ認定、受賞の輝かしい歴史の1ページの記録。

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僕はこの年表には徳間ジャパンさんの
「3人が育ったのはここ(徳間ジャパン)なんだ」という自負と
「3人はまぎれもなくここにいたんだ」という誇りがこめられているんだと思いました。
そして3人のこの素晴らしい歴史は、そのまま徳間ジャパンさん自身にとっても輝かしい歴史が刻まれた
という事なのであって、それは3人と3人に直接関われたスタッフさんだけのものでは無く
徳間ジャパンさんの全てのスタッフと徳間ジャパンさんの取引先にまで大きな喜びと仕事への活気、自信
といった大きな大きな笑顔の輪を作り出していた事だと思います。
その輪の中心にいたのが、いつもひたむきで謙虚でまわりへの感謝にあふれたあんな3人なんですから
本当に皆さん仕事が嬉しくて楽しくてしかたなかったでしょうね。

そして3人はこの対談の1年後に徳間ジャパンさんから巣立つ事になりました(この時既に移籍話は
あったんでしょうね。3人の決断を待つのみという状態ぐらいだったのかも・・)。
本当にそれは3人にとっても、徳間ジャパンさんにとっても辛くて勇気が必要な決断だったんだと
思います。だってこの年表の一番輝かしい歴史の一部が自分達の手元から離れてしまうのですからね・・
それでも徳間ジャパンさんのスタッフの皆さんは迷う3人の背中を優しく押してくれたと聞きました。
愛を持って笑顔を添えて・・・それは3人が本当に徳間ジャパンさんにとって誇らしく愛らしい3人だった
からに違いありません。今でも皆さん3人を見守ってくださってるんでしょうね。
会社を移籍しても3人の活躍や元気な姿をずっと楽しみにしてくれている方が徳間ジャパンさんには
沢山いらっしゃる事でしょうね。
じゃなきゃこの表紙の絵は・・・・ねー・・・
なんと温かい想いに溢れた絵なんでしょうか・・・・・
本当に3人をありがとうございました

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