私は、娘のブログに書かれている内容について、証拠を以って反論しているだけです。

そのことに触れずに他の話を持ち出すのは、論点のすり替え。詭弁です。

その論法を使って、証拠もなく死者を冒瀆し、嘘の証拠があっても、それを無視して相手の人格を語るとはいかがなものでしょうか。

 

問題の本質 最も大事な論点は、

 

「村下家が留守の間に入り込んで来て、無一文で追い出され、公文書偽造で離婚届を出されたかどうか。」

また、「その偽造と真に戦ったかどうか。」

 

「玉樹に麻痺はなく、くも膜下出血で入院するも、軽いものだった。奇岑が麻痺があると嘘をついていて困っている。と私、辰子が証言したことが某新聞記者のICレコーダーに記録されている。」

という娘と某新聞記者の主張が正しいかどうかでしかありません。

 

戸籍謄本にある村下との協議離婚の記述は、重い真実です。

また、玉樹のことは

某地方新聞記者がインタビューした「ICレコーダーに記録された私の証言」がなければ、

意味を為しません。

 

社会の公器である新聞社の記者が、ありもしないことを盾にして、老婆に苦痛を与え続けた事実は重いです。

このような記者に無関係を装う新聞社にも怒りしか湧きません。

自社内の道義的な問題を無視して、社会問題を扱えると思っているのでしょうか?

社内規定には無い問題としても、

企業コンプライアンスには企業倫理や社会的規範も含まれます。

親族と共に、一市民として、「ICレコーダーに記録された私の証言」の提示を求めることを

社名と実名を公開して抗議と共に求めないといけないのかもしれません。

 

 

他の問題を主張しても村下家のことと、玉樹の麻痺のことに対する答えにはなりません。

論点のすり替えと、第三者を使った仕掛け、孫を使って哀れを誘うやり方は、

ご意見無用の娘らしい反論の組み立てです。昔はいつも、この手法で振り回され、意見できなくなりました。

日出海にもダブルスタンダードと非難されてばかりでした。

 

間違いを起こしていない、正直な人。完璧な人だけしか意見できないというのでしょうか

論点のすり替えをしていると言うことは分かっています。

文章を書いたのが孫なのか優子なのかはわかりませんが、

娘は自分が正しくないことをわかっていて逃げています。

 

私は沢山の間違いをしてきた愚かな一老婆です。

それでも、身内の忍耐ですむ範囲であれば耐え忍んだと思います。

 

村下家のことをあれこれ書いてさえいなかったら、

 

某新聞記者を使って、

「玉樹に麻痺はなく、くも膜下出血で入院するも、軽いものだった。奇岑が麻痺があると嘘をついていて困っている。と私、辰子が証言した」とか主張して、展覧会関係者に圧力をかけなかったら、

 

このようなブログを開設したり、

村下家の側に立ち、自分の娘のことを悪く書くことも無かったでしょう。

誰も好き好んで娘のことを書きたくはありません。

 

私は昭和4年2月生まれです。92歳になりました。

心穏やかな余生はもう諦めました。

日々健康に気をつけて、人様の迷惑にならぬよう生きるのみです。

 

 

結託している某新聞記者も同じようなことをします。

自分で出した中国新聞社部長への手紙を各方面に添付して、他の文書とともに誹謗中傷したことがありました。

Facebookの件もことあるごとに謝罪しろと迫ってきます。

ゆうことよく似た論法を使っています。

中国新聞社部長への手紙では、

「親がかりで偉い人につけてもらった。受験に2度失敗して親元に帰った。」

と日出海のことを書いています。

「だから ダメな人間である」

「私は社会的地位の高い人間である」

「ダメな人間は信用できない」

だから「玉樹の麻痺が無く、軽い症状であり、重症だったと嘘をついている。辰子さんの証言もある」

との「私の主張は真実である。」という論証をしてきます。

 

これでは世の中のかなりの人間がダメ人間ですね。

思い上がりも甚だしいですね。

その上、娘からの情報でしょうが、日出海のことは、まるで真実と違います。

本人の同意も得ず、虚偽の個人情報を文書でばら撒くという暴挙に呆れてしまいます。

 

露菜の文章についても同様に、論点のすり替えですね。

嘘に嘘を重ねていくと破綻していくものです。

 

「母が体調を崩し休学したのは10月、

祖父が倒れて入院したのは12月末でしたが、

母は10月半ば〜12月初旬まで

福岡にある祖母の妹宅で静養していました。

 

当時、祖母と祖父は関係が悪く、

祖母の神経がたっており、

母は祖母と一つ屋根の下での静養は

精神的に無理だと判断したためです。

祖父が倒れる前から男性の部屋に入り浸っていたなど

事実無根です。」

 

と書いてありますが、

雪待月トップページ左下のブックマークにある別タイトルのゆうこブログ「父船田玉樹」では

 

前略

突然のお手紙失礼いたします。

私優子は日本画家船田玉樹の第5子にあたります。

2012年に開催して頂きました「生誕百年船田玉樹展」におきましては、皆様方には、大変御尽力賜りまして、本当にありがとうございました。

心より感謝申し上げます。

最後の妻である辰子の長女の私の立場からも、御礼が大変遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。

東京と広島とでの、父の展覧会について、私は、どちらからも、母からも、弟からも、全く連絡はございませんでした。

東京に住んでいます私の知人が「練馬へ行かせて頂き絵をみました等・・」という電話から、私ははじめて父の展覧会が開催されていることを知りました。

同時期に横浜の兄(長男)から連絡が入り、その週に兄が私の住んでおります関西に来て会い、色々な事を聞かされ、全容を知る事となりました。

さまざまな多くの事実が浮かび上がり、私は大変混乱して過ごしております。

すでに、ご承知おきかともぞんじますが「船田玉樹のクモ膜下出血の際に半身不随になった事、その為麻痺が生じ、その後リハビリに努力した事」以上の事実はそんざいしておりません。

クモ膜下出血で広島県立病院へ入院していた事実はございますが、とても軽いものでした。

これは、二人の姉・二人の兄も同じ認識でおります。

私は当時19才でエリザベート音楽大学(広島市)一年生でした。

大学に入学しましたが微熱が下がらない病気になり、1974年でしたが10月10日付けで大学に休学届けを出しています。体調の件で父にも心配をかけ、相談し休学届けを出した日が当時の「体育の日」だったので良く記憶しております。

それからは、日々、安佐南区山本の今ある実家で毎日すごしております。

休学をして2ヶ月後(12月末)に父がクモ膜下出血で県病院に入院しました。

私は、大学に行っておりませんでしたので、体調管理をしながら毎日両親を見ておりました。

1月の成人式には、父はまだ入院しておりましたが、私は式に出席し、ワンピース姿ではありましたが式場から父の病院に直行して成人式の報告をしました。父との会話もおぼえています。

「自分が病気をして入院してしまったので、着物を着せられなくて悪いなあ」と、私の洋服姿を見て言ってました。それから間もなく、1月下旬又は2月上旬でしたか、父親の足でしっかり退院しています。私の体調も良好になり、毎日実家の手伝いばかりでは・・と、運転免許を父のすすめでもあり3月に免許を取りはじめ。父の選んでくれた“スターレット” という自動車を買ってもらい、4月下旬からは、父の外まわりの仕事や、当時当時広島市紙屋町での“日立ファミリーセンター日本画教室” 講師も (病気の時代稽古をお願いしていたのは平田春潮先生、入院してた12月~3月下旬) 私に行き帰りに「乗せて行ってくれ」と私が父を乗せ仕事場のビル前まで行ったりしていました。5月には、十日市町という場所に父の教室を新しく作り、毎週一回ビルの2階に借りた自身の教室にきちんと通っておりました。6月に私が復学するまで、日本画教室の必要な道具類(絵筆から額、紙まで)をスターレットで運んでおりました。

目が見えなかった事実、半身不随になった事実は全くなかったということです。その後、復学後も、不仲だった母辰子の代役で父に同行し、又運転手をしております。写真もございます。

 

 

 

 

以上がその内容です。

同じ時期のことですが、方や福岡の叔母のもとで休養。

方や日々実家で両親を見ていた。

とのことです。

また、日出海以外の兄弟が同じ認識とのことですが、当時を知っている兄弟は4人。長女は嫁ぎ先の親御さんが同様の状態で動けず、次男は長らく消息不明で玉樹没後、一周忌を前にしてやっと私が探し当てたので何も知りません。

 

娘と某地方新聞記者に対応するために、

当時を知る親族全員で記憶を集めて文書化し署名捺印しています。

娘側は日出海一人が起こしていると言いたいようですが、

このブログも皆が見ていますし、相談しながらやっています。

 

話題の福岡の叔母もです。当時12月には、入院付き添いの私の助けで広島にいました。

叔母本人が福岡にいないのに叔母のところにいたと言うのは矛盾しますし、

仮に居たと言うのなら、玉樹の病状は知らないと言うことですね。

娘は12月末入院と書いていますが、発症したのは11月、発見されてからやっと入院できたのは12月初旬です。

以下の画像は署名者は別ですが、一枚目と2枚目の内容です。

 

私の2020.12.18のブログ、「玉樹から優子への手紙」の内容と繋がっているのは明らかです。

 

また、娘が各方面に送りつけた通知書にも兄弟全員が同じ認識と書いてありましたが、そのような嘘はすぐわかります。誰も相手にしませんでしたが、某新聞記者と、しつこく干渉してきました。

また面白いことに、この通知書では「眼底出血により一時的に目の見えない状況になったことはありましたが」とありますが、ゆうこブログでは「目が見えなかった事実、半身不随になった事実は全くなかったということです。」とあります。