私は昭和4年2月生まれです。2013年1月21日〜2月20日、広島県立美術館での生誕100年船田玉樹展の期間中私は84歳の誕生日を迎えました。1991年、玉樹が亡くなった年は、本人が展覧会をする予定になっていました。病院での最後の会話は・・・というより懇願に近いもので「展覧会をやってくれ」というものでした。三男奇岑が病院に来るのを心待ちにしていたようでしたが、会えた時には、すでに人工呼吸器処置がしてあり、その後静かに息を引き取りました。

 玉樹の最後の言葉は私にとって重いものでした。中央画壇を離れ、絵が売れていた作家ではなく、知名度も低かったため大々的に展覧会をするなど不可能なことに思えました。経済的なことも含め、このことでは三男をかなり追い詰めたと思います。喧嘩にもなり、喧嘩の元である残された絵を「もう焼いてしまえ。」と怒鳴られたこともありましたが、結局、ここまで具体的になったのは三男の努力あってのことでした。22年間はあっという間に過ぎ去ってしまい、何をしてきたのかわからなくなるほど玉樹の言葉に囚われていたように思えます。達成感と空虚な思いの交差する感慨深い誕生月でした。

 

  長男の子が1月24日に来ました。長男は「マローンおばさんの部屋」とか「いのちの木」など運営する「NPO法人五つのパン」の理事です。 1月26日に所属するNPO法人でアコーディオンを弾く三女のコンサートを横浜で主催するとかで一緒にこれず、後日来広となりました。やはり、妹ということで可愛いのでしょう。コンサートには横浜在住の私の妹、秋田夫婦も動員されたそうです。

 

 三女のところとは、三男が「養子縁組みを自分に断りもなくしてしまった」とか、「仏壇の花が枯れている」とか「先祖の供養は誰がするのか」と自分の子供とともにしつこく文句を言うので、喧嘩別れに。それ以来電話に出なくなり、孫たちも来なくなりました。

 長男が結婚したり、キリスト教に改宗した時にはなんの文句も言いませんでしたが、三男に関しては結婚のことも含めて自分に報告がないと怒ります。私が電話をかけても出ないのですが、長男や、叔母である妹たちとは普通に付き合っていたようで、三女(私にとっては長女)の情報はもっぱら間接的なものでした。

 7年ほどの期間、接触を断たれましたが、広島展の会期中には孫たちが見にきてくれました。最初は二番目の孫が、その後2月14日に最初の孫が日帰りで見に来ました。今回の展覧会の会期中に三女の子供達が来てくれただけでも嬉しかったです。やはり私にとって、唯一の孫たちですから。記念写真も親族に撮ってもらいました。

(写真は広島県立美術館の3Fティールーム徒夢創家において)

 

  

 この頃、私は老眼に加え、白内障と緑内障を悪化させていて、特に近くが良く見えませんでした。緑内障対策にレーザー治療もしたのですが、芳しくなく。日記なども、字を書くことが難しいので最小限必要なことだけです。今でこそ腰は曲がっていますが、この頃はまだ痛みはあるものの、まだ曲がっていません。練馬での展覧会では、遠方であり、暑かったのでさすがにまいりましたが、オープニングも出席しました。広島展は冬でしたので、少しは楽でした。知った方が次々に来られるので腰の痛みを押して、毎日のように会場へ足を運びました。

 美術館や三男には、オープニングの段取りやチケットの手配とかのことでで文句を言いましたが、皆、火事場の騒乱状態でしたので、仕方のなかったことと思います。毎日会場で接客し、玉樹の昔を知る方々と、話を合わせながら、肉体的、また精神的にも参りました。展覧会後も少しの事でイライラし、気になり始めると眠れなくなり、三男を早朝から自宅に呼びつけたりもしました。親族が心配して、アルツハイマーなどのボケではないかと認知症のテストなどさせられましたが、結果は30点満点中、30点。非認知症平均は24点、軽度認知症19点からなのでパーフェクトです。息子や担当医より点が良いのです。それ以来、定期的にチェックするようになりました。

(写真は練馬区立美術館でのオープニング、広島県立美術館でのオープニング、27年診断書)