前回の仮説で、
押坂彦人大兄皇子 = 蘇我馬子
なら、押坂彦人大兄皇子の息子の茅渟王(ちぬおう)は、
茅渟王(ちぬおう) = 蘇我蝦夷
になります。
そして茅渟王(ちぬおう)=蘇我蝦夷が用明天皇の娘と結婚していて、高向王が生まれていたら、高向王は、日本書紀の言う用明天皇の孫になります。
前回の疑問、
茅渟王(ちぬおう)=蘇我蝦夷が、用明天皇の娘と結婚できる可能性はあったのでしょうか?
実は、用明天皇には、知られている娘は一人しかいません。
酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)です。
この皇女は、推古天皇が即位する前から、斎宮(いつきのみや)として、独身を通し神様のお世話をする役についていました。
推古天皇時代の途中まで、37年にも渡る斎宮を務め、還俗したことになっています。
斎宮は、天皇が男性の場合、巫女として神様のお世話をする女性です。
しかし女帝の場合、女帝自らが斎宮を兼ねるのが普通です。
推古天皇は初めての女帝だったので斎宮のルールがどうであったのか不明な点もありますが、推古天皇即位の後、酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)が斎宮を続けていたかはあやしいのではないかしらと思っています。
茅渟王(ちぬおう)=蘇我蝦夷と、結ばれていた可能性が残ります。
別の可能性として、高向王が用明天皇の孫となるのは、用明天皇の息子(皇子)とどこかの女性との子供の場合もあります。
蘇我蝦夷に関係ない組み合わせが考えられます。
しかし、それなら、日本書紀は高向王の出自をそのまま書けば良いだけです。
斉明紀の初文にわざと入れ、しかも出自を書かないのは、後世に対し隠した謎を解き明かすヒントを、編集者が残したからだと思います。
「高向王は、用明天皇の孫である。」という文章で、用明天皇の一人しかいない娘の酢香手姫皇女を連想させ、夫名を隠すことで藤原氏が抹殺しようとした蘇我氏の男性を連想させようとしたのだと思います。
大胆な推理でしょう!!
そして、茅渟王(ちぬおう)=蘇我蝦夷
と気がつけば、茅渟王(ちぬおう)と、用明天皇の娘の酢香手姫皇女との子供の高向王は、高向王=蘇我入鹿
になり、高向王=蘇我入鹿は、酢香手姫皇女の子供ですから