前回までで、押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子という大胆な仮説をご紹介しました。
あまり有名な説ではありませんが、この推理をしている人たちもいます。
私もこの説は、前回お話ししたように、いろいろな疑問が解消するなと感じております。
ここからは、押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子(蘇我馬子が敏達天皇の第一皇子として天皇家家系図に割り込んだ)と言う仮説は正しいという前提で、話を進めたいともいます。
天皇家系図に割り込んだかどうかは別として、押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子と言う前提で推理していきたいと思います。
(空論とは言わないで付き合ってください。)
この仮説の基に話を、さらに進めましょう。
残った疑問は、押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子なら、押坂彦人大兄皇子の息子になる、すなわち蘇我馬子の息子になる舒明天皇は、蘇我氏の血が流れていることになりますが、
何故、高向王(たかむくおう)との結婚歴のある、宝皇女(たからのひめこ)を娶らせ再婚させたかです。
結局、蘇我馬子が34代舒明天皇に35代皇極天皇を娶らせ(再婚させ)、本当にやりたかったことは何だったかを推理していきたいと思います。
まず高向王について推理してみます。
日本書紀の斉明紀初文に戻りましょう。
「宝皇女(たからのひめみこ)は、舒明天皇と結婚する前に、高向王(たかむくおう)と結婚し、漢皇子(あやのみこ)を生んでいた。高向王は31代用明天皇の孫にあたる。」です。
高向王も漢皇子もここにしか出てこないので、あとは推理するしかありません。
前回までの仮説も含め、少し整理してみます。
(1)押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子なら、舒明天皇は押坂彦人大兄皇子の息子であると同時に、
蘇我馬子の子供になります。蘇我氏の血が流れている。
(2)押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子なら、押坂彦人大兄皇子の息子である茅渟王(ちぬおう)(舒明天皇とは異母兄弟)は、蘇我馬子の子供なので
茅渟王(ちぬおう) = 蘇我蝦夷
と考えられます。
(3) 残るは、斉明紀初文の「高向王は、用明天皇の孫にあたる。」ですが、
もし、茅渟王(ちぬおう)=蘇我蝦夷が、用明天皇の娘と結婚しており、その子供が高向王なら、高向王は用明天皇の母方の孫になります。
さらに茅渟王(ちぬおう)=蘇我蝦夷だから、高向王=蘇我入鹿になります。
(4)高向王=蘇我入鹿なら、高向王と宝女王の子供の漢皇子は、蘇我氏直系の子孫となります。
この推理のポイントは、(3)の茅渟王(ちぬおう)=蘇我蝦夷が用明天皇の皇女と結婚できた可能性はあるのでしょうか?