8再び押坂彦人大兄皇子、そして押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が重なる | seko-yaブログ

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へそ曲がりが始めた『学校で教わらなかった日本の歴史』です。
 日本の歴史を、見方を変えて解釈すると、かえって昔の人達が生き生きとして見えてきます。
他に特定地域の歴史等色々な情報をご紹介していこうと思います。

 もう一度押坂彦人大兄皇子についてです。

押坂彦人大兄皇子は、30代敏達(びたつ)天皇の第一皇子であり、日本最大の墓域面積を持つ牧野(ばくや)古墳に祀られていると言われています。

     また30代敏達天皇の娘(押坂彦人大兄皇子の異母妹)3人を娶ります。

    2人は、蘇我馬子の政治力で日本初の女帝となった推古天皇-敏達天皇夫妻の娘です。
 
  

 

新たな事実ですが、押坂彦人大兄皇子は30代敏達天皇の息子の位置にありながら、「皇祖大兄」と呼ばれているのです。なぜ「皇祖」なんでしょう。
30代敏達天皇の第一皇子なら、「皇祖」ではないはずですよね。

   

 

 

    押坂彦人大兄皇子にはさらに不思議な話があります。

もう一度、改めて整理しますと以下です。

 

    推古天皇は蘇我馬子の後押しで、聖徳太子等を押しのけ即位しました。

   しかし4人いた娘の内、押坂彦人大兄皇子には2人も娘を嫁がせましたが、蘇我馬子には一人も嫁がせていません。あと二人は聖徳太子と欽明天皇の息子の一人、桜井皇子です。
 この時代、推古天皇にとって自分を天皇の位につけた、もっとも権力があったと思われる蘇我馬子には一人も嫁がせていません。

 

②蘇我馬子と物部守屋の戦い(崇仏戦争)で、物部守屋側の中臣勝海は、押坂彦人大兄皇子と推古天皇の息子の竹田皇子の像を作り呪いをかけますが、何故か仏教擁護派の蘇我氏の大将・蘇我馬子の像はなく蘇我馬子を呪っていません。

    なぜ大将の蘇我馬子を真っ先に呪わなかったのでしょうか?

 

③中臣勝海は、その後蘇我氏側に寝返ります。

    しかし蘇我馬子の命を受けた押坂彦人大兄皇子の家臣と言われる迹見何某という家臣が、中臣勝海を殺害します。

     蘇我馬子は皇族であるはずの押坂彦人大兄皇子の家臣に何故命令できたのでしょうか。

 

④蘇我-物部戦争(崇仏戦争)以降、押坂彦人大兄皇子の消息が不明になります。

   ③の押坂彦人大兄皇子の家臣の迹見何某は崇仏戦争の後は、蘇我馬子の家臣として働くようになります。

    まるで押坂彦人大兄皇子の名前が必要なくなり、蘇我馬子の名前だけで通用し始めたように見えます。

 

32代崇峻天皇殺害事件は、蘇我馬子の家臣の仕業と今でも明らかに言われていますが、何故かこの時代、「現役天皇殺害事件」の責任を蘇我馬子はとっていません。

    現職の天皇を殺害した大反逆罪なのにですよ!!

 

⑥乙巳(いっし)の変(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を惨殺したクーデーター)の後、当時の天皇であった皇極(斉明)天皇は、直後、蘇我馬子の仏教に対する功績を讃える声明を出しています。

  何故?乙巳の変は天皇家をないがしろにした蘇我入鹿を中大兄皇子達が粛清したはずなのに、何故皇極(斉明)天皇は、大悪人蘇我馬子の功績をたたえる声明を出したのでしょうか????

     

特に②~④は『日本神話と古代史』というホームページの中で、広瀬満さんが『大国主伝』の中で指摘されています。

 

このように、押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子と重なる部分が見え、二人は同一人物ではないかと思えます。

そして崇仏戦争後、押坂彦人大兄皇子はその存在を消し、蘇我馬子の全盛時代になっていきます。

蘇我馬子が押坂彦人大兄皇子を暗殺したなら、日本書記はここぞとばかりに蘇我馬子を糾弾するはずですが、全く不問のまま押坂彦人大兄皇子は歴史から消えていきます。

不思議ですね。