ここまでお話ししたたくさんの疑問点を整理してみましょう。
①
日本最大の墓域を誇る牧野(ばくや)古墳に祀られ、30代敏達天皇の娘3人を娶った敏達天皇の第一皇子押坂彦人大兄皇子(おしさかひとひこおおえのみこ)は、即位できなかったが、敏達天皇-推古天皇夫妻が娘(人質)2人を差し出すほど大きな権力を持っていたと思われます。
日本書紀などには業績も何も書かれていない押坂彦人大兄皇子とはどのような人物なのでしょうか?
②
蘇我氏全盛時代に蘇我氏の血が流れていない、押坂彦人大兄皇子の息子34代舒明天皇は何故即位できたのでしょうか?
また舒明天皇擁立に際しては、蘇我蝦夷が奮闘しますが、何故蘇我蝦夷は蘇我氏の血が流れていない舒明天皇擁立に奮闘したのでしょうか?
蘇我氏の血は流れていないのに34代舒明天皇は即位できましたが、同じような環境にあり、しかも大きな権力を持っていたと思われる父の押坂彦人大兄皇子は何故即位できなかったのでしょうか?
③
押坂彦人大兄皇子の孫であり、押坂彦人大兄皇子の息子の茅渟王(ちぬおう)の娘である宝皇女(たからのひめみこ)も即位できる血筋ではないのに、35代皇極(重祚して斉明)天皇として即位します。何故即位できたのでしょうか?
④
日本書記『斉明紀』の初文の「宝皇女は舒明天皇と結婚する前に高向王(たかむくおう)と結婚し、漢皇子(あやのみこ)を生んでいた。
高向王は31代用明天皇の孫にあたる。」
という不要と思える記述で、日本書記編纂者は何を伝えようとしたのでしょうか?
⑤
舒明天皇は何故宝皇女こと皇極(斉明)天皇と再婚したのでしょうか?
これらの疑問点の大元には、押坂彦人大兄皇子が関係しています。
この時代(31代用明天皇~33代推古天皇、34代舒明天皇、35代皇極天皇(37代斉明天皇の時代)は、蘇我氏全盛の時代です。
特に蘇我馬子が強大な権力を持っていました。
蘇我馬子は日本の国王「天多利思比孤(アメノタリシヒコ)」として、2度の遣隋使派遣を行い、17条の憲法を制定し、官位12階の制度を作りました。(以前も書きましたが聖徳太子の業績ではないと思われます。)
そして、隋の使節「裴世清(はいせいせい)」に、日本の国王として謁見したと思われます。
31代用明天皇の第一皇子の聖徳太子が即位できなかったのは、蘇我馬子が聖徳太子よりコントロールしやすい推古天皇擁立に動いたためとも言われています。
推古天皇は、蘇我氏の拠点飛鳥・甘樫の丘の北端にある蘇我馬子の邸宅であった豊浦(とゆら)寺(豊浦宮)で、実際馬子の基で政治を行ったとも言われています。
最初の疑問①~⑤には大きな権力を持っていたと思われる押坂彦人大兄皇子が関係しています。一方聖徳太子を退け推古天皇を強引に擁立したと思われるこの時代の大きな権力者蘇我馬子は、同じ時代の人になります。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子はどんな関係にあったのでしょうか?
相争っていたなら、押坂彦人大兄皇子が即位できなかったことは理解できますが、押坂彦人大兄皇子の息子34代舒明天皇が即位できた理由がわかりません。しかも蘇我蝦夷が擁立に奮闘するなどは全く理解できません。
また蘇我馬子が擁立した33代推古天皇の娘2人は一人も蘇我氏に嫁がず、押坂彦人大兄皇子に嫁ぎます。
(30代敏達天皇にすると、推古天皇との間の娘2人と、別のお妃のとの間の娘1人の計3人が押坂彦人大兄皇子に嫁ぎます。)
蘇我馬子より、押坂彦人大兄皇子は大きな権力を持っていたのでしょうか?
蘇我氏(及び蘇我氏の業績)を抹殺したい藤原氏にすれば、蘇我馬子より権力のあった押坂彦人大兄皇子なら、日本書紀でもっともてはやしてよいはずなのに、全く記述されていないのです。
大きな疑問がでてきました。
蘇我馬子よりも権力を持っていたように見える謎の人物、押坂彦人大兄皇子とは、本当は何者だったのでしょうか?
次回以降、押坂彦人大兄皇子の隠された仮面をはがし、蘇我馬子が企んでいたことを次第に明らかにしたいと思います。