ボディフルネス!! ほおーっと.とっと

ボディフルネス!! ほおーっと.とっと

はーとふるな仲間たちとの
 ボディフルな暮らし

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 令和元年、秋場所中日のゲスト解説はラグビーの五郎丸さん

 当然のことながら相撲に絡めてあの『ルーティーン』の質問を受けていた。

 それがとてもボディフルネスだったので紹介します。

 

なぜお決まりのポーズをするんですか?の問いに

『まずは目標とする選手を真似てみよう、形から入ってみよう、そこからです。』

その意味は?

『同じ動作をすることによって成功率を上げていこうということでしょうか。』

『よく「メンタル」と心のことを言われますが、心の部分と言うのは難しいことですし自分で触れない、コントロールできないことです。

 それは、振り返れないし、数字にも出ない。それと闘うのは難しいし、とても怖いことです。

 だからこそ行動と言う自分で見えるもの、触れれることをやって、見えない部分を落ち着かせるのでしょう。』

 『そういう風に自分を持っていく。それが結局メンタル、心の部分と言うことでしょうか。』

『実際、同じ通学路を通っていれば事故も起きないし怪我もしないのと同じと思います。』 

 

その時々の自分をしっかり振り返れるものが「行動」だし、いい時も悪い時もしっかり振り返れると言うのが「ルーティーンのある行動」なんでしょうね。

 

最後に、試合のときはとても無表情に思うのですが?と訊かれ

『勝っておごらず、負けて腐らず・・・ということでしょうか?』と

  これもさすがです。

◆ 暮らしの中のボディフルネス1・・・『あるく』

 

毎日毎日歩いているときは、目的地に向かってセカセカ。目的地についたら、また新たな場所までセカセカ!

私達は、たえず「何かのために」と思い行動をし、それが達成されることが生きている実感だと思っていますが、そこに到着した時にはまた次の「何かのため」があって、どこまでいっても実感が持てません。

私たちの生は「何かのため」にあるのではなく、それ自体が目的であり、

到着することではなくそこまでの一歩一歩の歩みこそが命そのものです。

 

歩くときに、その歩く一歩一歩を味わうことができたら、

「いま、ここ」に生きていると感じれたら、まわりの景色がまったく違って見えてきます。

 緑がこんなにもきれいで、生き生きしていると思ったり、道端の花が次々と見つかったり・・・。

 

「こころ」(マインドフルネス)が大切だと暮らし以外の場で瞑想する方もいますが、

「今」自分が生きている、歩いている、食べているということをからだ全体でボディフルに体験すること以外に「こころ」をマインドフルにはできないのではないでしょうか?(^-^

)地面の中に

 

 

 

学校の体育の時間だけが「体育」と思わされてきました。

が、子どももおとなも、からだをいきいきとさせるための取り組みや活動のすべて!!

それが体育(からだそだて)なんでしょうね。

 

昔からからだが整うとこころも整うと言われます。

からだが持つ力や知恵を生かして、元気を取り戻す・・・

その活動は、庭掃除でも 鬼ごっこでも 山登りでも・・・

何でもいいのです!!

 

ただ自分の力の中で、楽しく気持ちよく自分のからだをつかえたらいい

からだが持つ力を知り、本来の自分、ありのままの自分に自信を持って生きていく

…そんな営みがわたしたちの体育「からだそだて」

 

私たちが真に生きることができるのは、昨日でも明日でもなく、今この瞬間。「今、ここ」に十分に気づくことが生きる力の源泉となります。

 

毎日の繁雑な生活のなかで、すべきことができている自分に気づいてみることはとてもすばらしいことですね。

ボディフルネスになることは特別な場所や方法は必要なく、職場にいるときでも、家庭にいるときや通勤通学の途上でも、一日じゅう、いつでもどんな場所でもできるのです。

ボディフルネス! 今,この瞬間に 行動できている自分に100%気づいて生活すること…

 

 

 琵琶湖湖畔

 

自分らしい力が発揮できずに苦しむ子たち

 そんな多くの子どもたちやその保護者の方々に出会ってきました。

 

わたしもまた、同じテーマを持つものとして、

 同行させてもらいながら、ただ共にそのテーマに向かうとき

試行錯誤しながら行き着くのは、何か特別な方法ではなく、とてもシンプルな世界

 

それは難しいことではなく、自分たちが昔から普通に行ってきたことであり、

それは人類がずっと昔からやってきたこと

・・・一緒にあそんだり、目の前の手しごとをしたり、手をつないだり・・・

とてもシンプルであたり前なことを、無心にやれている自分に戻れること

・・・そこに真実がありました。

 

「からだ」で行い、「からだ」でまわりとつながっていく

・・・一言で言うなら“ボディフルネス”☆☆

 

                 

 

アタマやことばを使いすぎて、あたり前がわからなくなってしまうとき、

からだ」を中心に据え、からだを目いっぱい感じ、使っていくと
 そこに求めていた答えが姿をあらわします。

 

ひとりではなかなか気づけないことも、
 誰かと一緒なら、楽しく ありのままを見つめたり、
 発見をおもしろがれたり、見ようとしなかったステージが見えたりもします。

 

そんな「からだ」を中心とした生活を楽しむ『暮らしの研究』

からだを羅針盤に、ともに様々なテーマに向かう『生き方研究』

そんな研究を面白くやっていけたらと思います。

 

そこには、

ひとりひとり、みんな素敵な「いのち」そして「からだ」があり、

 そこには まだまだ知り得ていない「ちから」がある!

そんな「からだ」が躍動すれば、どんどん「つながり」も生まれる! 

 そんな「いのち」や「からだ」への信頼があります。

心が沈むとき、何をしても振り出しに戻ってしまうけど、

 森に入ると、森にあふれるちからで癒され

  今からまた何かをし始めるちからが湧いてくるのを感じます。

 

曇っていたからだの五感がひらき

 丸ごとのからだが、わたしに進むべき道を示してくれます。

 

また

だれかが声をかけてくれたとき、その声があたたかくからだの中に届いて

 からだが弾んでくることがあります。

その弾んだからだはまた、

  まわりにその振動を伝え、新しいつながりを生んでいきます。

 

わたしたちのからだには、誰にもそんな素敵な“ちから”があると実感します。

 

       木立 冬

 

そんな賢いからだを、曇ったままにしないために

 暮らしを、

 からだをしっかり生かした”ボディフル”なものにしていきたいと思います。

 

からだに目を向けるとさっきまでのもつれた心や考えは何だったんだろう?・・・

と不思議に思います。

 

   ボディフルネス・・・そんなからだの奇跡との出会い!!

「支援」とは 

「支援」に関わる仕事をしている私は、ある研究大会に向かう新幹線の中、①果たして「支援」などというものは必要なのだろうか、②そもそも「支援しよう」などという思いが自分の中に存在するのか、③そしてもし自分に何らかの支援ができるとしたらそれはどんな支援なのか、そんな問いが頭の中を巡っていた。

 

そう、宮沢賢治「雨ニモマケズ」の「東に病気の子供あれば 行って看病してやり・・・南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいと言い・・・」というフレーズに私はずっとしっくりいかない思いがあった。もしそれが「善意」や「人類愛」と言った類のものからだったら私にはできそうにないと感じてきたからだ。

 

今回、この大会のどの報告にも共通していたのは、「発達障害」「学校集団が不安な生徒」「クライエントに向き合えない援助者」「在日外国人」「自信を失った主婦」「妊婦」「人生の終点を迎えつつある人」「民話の中の異人」「先住民」など、多数派ではないマイノリティである“当事者”のまなざしであり、それに学びが深められるものだったが、特に私の問いとの間にパースペクティブを与えてくれたものは、民話に見られる「痛み」であり、ホリスティックな見地からの「サナトロジー(死学)」の視点であった。

 

◆「痛み」から

 益々「痛み」を忌み嫌う時代になっていると言われるが、民話には心身の「痛み」を伴うストーリーが少なくなく、Aさんの「共に生きようとした時に現れる『痛み』の感覚『共苦』からともに生かし合う『共生み』の関係が生まれる」という提言はとても腑に落ちるものであった。

 

私も心身の「痛み」を伴わない理解は頭だけの理解でしかないと感じてきた。人は本来、相手の痛みがどのようなものか知ることはできない。だからこそ、自分なりの見方は捨てていかないといけないし、自分なりにではあっても「苦」の体験を重ねていくしかない。

それは「エンドオブライフケア」の一様式である「ミュージック・サナトロジー」の中でSさんが取り上げられた「メタノイア」(自分も含めた人の痛みや苦しみを、共感・共有できるところに視座を移すことではじめて見えてくること?)にも通じる視点であろう。

 

「痛み」とは言葉ではあるが頭で理解されるものではなく、胸の痛みがこちらの胸にも入ってくるように相手の“身になる”ことで理解される。それをAさんは内臓感覚からの言葉と言う。とてもよくわかることだ。

 

人は転ばんとする人にサッと手が出るように、自分の体験と何か通じるものがあると、頭からの命令ではなく“からだ”が思わず動いてしまう。個々の痛みの違いはあっても、共に「生まれ死すべき運命」という「生の痛み」を持った人間として、自分のいのちを生きようとしている「当事者」という「共通性」が誰にもある。そしてそんな共に感じれる痛みがあるから、“からだ”が動きだすのだ! 

 

賢治が、そして谷川俊太郎が「歌っていいですか 独りの部屋であなたがうなされているとき」と歌うのは、「意図された支援」ではなく、つい“からだ”がそう動いてしまうということだったのか!と少しわかったような気がし嬉しくなった。

 

整体の智慧に〝「痛み」は良くなろうという身体のサインであり、痛みを感じず鈍くなっている状態が「病」″とある。痛いのはもう嫌だと逃げ続けるのと、痛みからのメッセージを読み取れるのとでは大きな違いがある。

「共苦」、そこには「共楽」そして「常楽」へとつながっていく大いなるヒントがある。それはTさんの「痛みであっても何かを攻撃するものではない」ということにも通ずる。

 

◆「何もしない」ということ 

では私は他者の前にどう立つことができるのか。報告を聞かせていただきながら私は「慈悲」という言葉の「悲」を思っていた。(「慈」は慈しむという何かしらの能動性をもつものだが、「悲」は何もせず何も問わないでそばにいることだろうか)「慈」ではなく「悲」の心でしか癒されない支援のかたちがあるように思う。

 

Yさんの言われる「ただ支援の知識やノウハウを増やしても仕方ない」「丸ごと無条件に受け止める」と言うことも、また「ミュージック・サナトロジー」の“ただ一緒にすごす”ということもそれはそのまま「悲」の心と言える。 

 

「共苦」をベースにして「共楽」へとつながる「共生み」は“ただいること”の深さをもまた知らしめてくれる。他者や自然に息を合わせ(ファインチューニング)、ただあるがままに「立ち」「待ち」「同行する」ことは、任せた“からだ”が「何かをする」のを期待するのではなく、ただひたすら無心に、力を抜いた“からだ”のまま、「期待」も「からだ」も捨ててしまうことまで求められているのではないか? 

 

それはアボリジニなど先住民の智慧と同じく、縄文人~日本人固有のコスモロジーから生まれる支援の立ち方であり、異文化/異人とも平等につながっていく考え方にもなろう。そこには「痛み」や「困難」を避けるのではなく、森羅万象とのつながりに根ざしたひとつひとつの“いのち”(息の勢)への信頼がある。

 

三弦の話をします。


3弦がこれほど面白い世界とは・・・早く知っておけばよかったと後悔ばかりです。

(沖縄のいくつかの小学校のように、音楽に三線を取り入れるのはいいですね)


三味線系の調弦は完全無欠です。

ノーマル調弦の完成度と、そこに、所謂“二上げ”が加わると、ほとんどの曲がカバーでき

誰かとセッションをするとかでなく、自分で楽しむなら必要十分な楽器となります。


たとえば

D-G-Dの調弦ならGのキーの曲が、容易に弾けます。  

それで声の高さが合いにくければ、1/2オクターブちょっと違いの

Dのキー(D-A-D)に、真ん中の弦を1音上げるだけでできます。


それが分かってから、好きな曲は全てGDのキーに移調し、自分なりのSong Bookを作ったのですが

手元に三弦系の楽器があれば、どんな曲でも楽しめるぞ!!

という安心感と喜び

三弦があたえてくれたその気分は、楽譜や楽典嫌いの私が、音楽を気楽に楽しめるための入口を大きく開けてくれたのです。

Sさん

ミッチェルさんがテレビに出るとの情報、ありがとうございました。

どもりながらも真摯に話し、相手とやりとりをし、じっくり子どものことを考える

そんなミッチェルさんのドキュメントが見れ、よかったです。


ご自身の吃音やお子さんの自閉症があるからこそ深く感じ交感できる・・・

きっと日本の自閉症児の本の英語への翻訳にもミッチェルさんのそんなハートが加わってるんでしょうね。

日本語版だけでなく、翻訳版の方も読みたくなりました。


                   

映像でですが、東田直樹さんに初めて出会えました。

「自閉の世界」をしっかり伝えられていて、勝手に知ったかぶりになっていることが多いと反省しました。

どの自閉症の子どもも、やりとりの仕方がうまくないだけで、相手を敏感に感じ、思いをしっかり深める力がある、そしてそれを伝えたい、表現したいと強く思っていることをあらためて確かめることができました。


ドキュメントの中で、当事者が書いたものを材料に毎日家庭で話していると、話さなかった自閉症の息子が次第に自分の思いを語るようになった場面がありました。

当時者の体験談は、まだ思いを語れずにいる子どもたちに本当に大切ですね。


短い盆休みの最後にいいものを観ることができました。

二十歳くらいのときに、下宿のすぐ近くの本屋で偶然手にとったのが『拳聖 澤井健一』という本であり、それが太気拳/意拳の世界との出会いだった。


ちょうど高校からやっていた少林寺拳法でも、大学の専攻でどの方向に進んでいくかも壁にぶち当たっている時だった。


思いもよらぬその本の中に、その後ずっと自分のテーマとなるヒントがあったのだ。


それはこんな記述であった。

『無意識にやかんに手が触ると、カラダが反応してさっと手を引くから火傷しないけど、いくらサッと素早く手を引こうと意識して触っても、火傷する』 

なるほど・・・、 しばらくの間、この例が頭の中を回っていた。


少林寺拳法にも「カラダで覚えた技は、考えなくても箸を使うように相手に合わせて使える」と

また森田の逸話にも「いきなり跳んできた石はさっとよけれる」というのがあった。


                 

武道でも、スポーツでも、対人面でも、前頭葉を使って考えれば考えるほど現実からは離れるし、動きは遅くなる(ぎこちなくなる)!!

それまでの自分はまさに、前もって考えて、当たり前に動けない感じだったことに気づけた。


「からだに任せる」感覚、「丸腰でものごとに向き合ってみる」感覚

そんな感覚が持てるかどうか?それが自分のテーマとなった。