◆「支援」とは
「支援」に関わる仕事をしている私は、ある研究大会に向かう新幹線の中、①果たして「支援」などというものは必要なのだろうか、②そもそも「支援しよう」などという思いが自分の中に存在するのか、③そしてもし自分に何らかの支援ができるとしたらそれはどんな支援なのか、そんな問いが頭の中を巡っていた。
そう、宮沢賢治「雨ニモマケズ」の「東に病気の子供あれば 行って看病してやり・・・南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいと言い・・・」というフレーズに私はずっとしっくりいかない思いがあった。もしそれが「善意」や「人類愛」と言った類のものからだったら私にはできそうにないと感じてきたからだ。
今回、この大会のどの報告にも共通していたのは、「発達障害」「学校集団が不安な生徒」「クライエントに向き合えない援助者」「在日外国人」「自信を失った主婦」「妊婦」「人生の終点を迎えつつある人」「民話の中の異人」「先住民」など、多数派ではないマイノリティである“当事者”のまなざしであり、それに学びが深められるものだったが、特に私の問いとの間にパースペクティブを与えてくれたものは、民話に見られる「痛み」であり、ホリスティックな見地からの「サナトロジー(死学)」の視点であった。
◆「痛み」から
益々「痛み」を忌み嫌う時代になっていると言われるが、民話には心身の「痛み」を伴うストーリーが少なくなく、Aさんの「共に生きようとした時に現れる『痛み』の感覚『共苦』からともに生かし合う『共生み』の関係が生まれる」という提言はとても腑に落ちるものであった。
私も心身の「痛み」を伴わない理解は頭だけの理解でしかないと感じてきた。人は本来、相手の痛みがどのようなものか知ることはできない。だからこそ、自分なりの見方は捨てていかないといけないし、自分なりにではあっても「苦」の体験を重ねていくしかない。
それは「エンドオブライフケア」の一様式である「ミュージック・サナトロジー」の中でSさんが取り上げられた「メタノイア」(自分も含めた人の痛みや苦しみを、共感・共有できるところに視座を移すことではじめて見えてくること?)にも通じる視点であろう。
「痛み」とは言葉ではあるが頭で理解されるものではなく、胸の痛みがこちらの胸にも入ってくるように相手の“身になる”ことで理解される。それをAさんは内臓感覚からの言葉と言う。とてもよくわかることだ。
人は転ばんとする人にサッと手が出るように、自分の体験と何か通じるものがあると、頭からの命令ではなく“からだ”が思わず動いてしまう。個々の痛みの違いはあっても、共に「生まれ死すべき運命」という「生の痛み」を持った人間として、自分のいのちを生きようとしている「当事者」という「共通性」が誰にもある。そしてそんな共に感じれる痛みがあるから、“からだ”が動きだすのだ!
賢治が、そして谷川俊太郎が「歌っていいですか 独りの部屋であなたがうなされているとき」と歌うのは、「意図された支援」ではなく、つい“からだ”がそう動いてしまうということだったのか!と少しわかったような気がし嬉しくなった。
整体の智慧に〝「痛み」は良くなろうという身体のサインであり、痛みを感じず鈍くなっている状態が「病」″とある。痛いのはもう嫌だと逃げ続けるのと、痛みからのメッセージを読み取れるのとでは大きな違いがある。
「共苦」、そこには「共楽」そして「常楽」へとつながっていく大いなるヒントがある。それはTさんの「痛みであっても何かを攻撃するものではない」ということにも通ずる。
◆「何もしない」ということ
では私は他者の前にどう立つことができるのか。報告を聞かせていただきながら私は「慈悲」という言葉の「悲」を思っていた。(「慈」は慈しむという何かしらの能動性をもつものだが、「悲」は何もせず何も問わないでそばにいることだろうか)「慈」ではなく「悲」の心でしか癒されない支援のかたちがあるように思う。
Yさんの言われる「ただ支援の知識やノウハウを増やしても仕方ない」「丸ごと無条件に受け止める」と言うことも、また「ミュージック・サナトロジー」の“ただ一緒にすごす”ということもそれはそのまま「悲」の心と言える。
「共苦」をベースにして「共楽」へとつながる「共生み」は“ただいること”の深さをもまた知らしめてくれる。他者や自然に息を合わせ(ファインチューニング)、ただあるがままに「立ち」「待ち」「同行する」ことは、任せた“からだ”が「何かをする」のを期待するのではなく、ただひたすら無心に、力を抜いた“からだ”のまま、「期待」も「からだ」も捨ててしまうことまで求められているのではないか?
それはアボリジニなど先住民の智慧と同じく、縄文人~日本人固有のコスモロジーから生まれる支援の立ち方であり、異文化/異人とも平等につながっていく考え方にもなろう。そこには「痛み」や「困難」を避けるのではなく、森羅万象とのつながりに根ざしたひとつひとつの“いのち”(息の勢)への信頼がある。