アリストテレスが自然学の第一章で述べた自然の原理は質料、形相、欠除態の三つである。しかし第二章での転化の原因は四つある。質料因、形相因、始動因、目的因がそれである。
この自然の原理と転化の原因の関係性はどのようなものであるか。これをアリストテレスの偶然論とから絡めて論じてみたいと思う。
1 自然の原理
まず自然の原理がどういうものか説明したいと思う。質料というのは、例えばお皿が木で作られている、鉄で作られていると言ったように、その素材となっているものである。それに対して形相とはお皿そのものであり、木の皿、鉄の皿に共通するお皿がお皿として成立するためにもっていないといけない型式のようなものである。
またアリストテレスは質料を基体として取り扱うこともある。基体とは「生成するものがそれから生成する」(アリストテレス全集3、岩波書店、1976年、p,33)と説明されるように、生成変化のもとになるものである。すると質料がその生成変化のもとになることは容易に分かる。形相としてのお皿自体は変化することはない。もしそれが変化してしまったらお皿ではなくなるからだ。つまりお皿が凹んだり、ヒビが入ったりするのは質料である木や鉄の部分であることになる。
こうしてアリストテレスは「自然的諸物はすべて基体と型式(形相)とから生成する」(同上 p.34)という結論に至るのである。動物にしても植物にしても生成するときは形相に向かって変化していく。しかしその変化のゴール(目的)であるものは変化せず、質料がそれに向かって変化していくのである。
では欠除態とはなんであるか。これは消極的な説明方式である。教養ある人間というのは、「教養ある」と「人間」が複合してできているが、この時変化の基体になるのは人間なので、形相が教養で質料が人間ということになる。そして教養の消極的な表現が無教養である。「無教養な人間」と「教養ある人間」の違いはなんであるか。それは無教養な人間は教養という形相が欠除しているのである。つまり欠除態とは形相が欠除している状態のことであり、否定的表現となる。
この欠除態をアリストテレスが原理に含めたのは、ただの人間と無教養の人間を異なっているものとして彼が捉えたからである。誰かに対して、君は人間だ、と言うことと、君は無教養な人間だ、と言うことでは意味が変わってくる。この違いに注目すると欠除態も自然の原理の一つとして含まれるとアリストテレスはするのである。
2 転化の原因
以上の説明から転化の原因として、質料因と形相因があることは分かると思う。自然的諸物を質料と形相からできていると考えているなら、この二つを原因として物事が変化すると考えるのは当然だと思えるからだ。ただ変化のゴール(目的)としてあるものか、変化していくそのものとしてあるものであるかが違うのである。
では欠除態はどこにいってしまったのか。これは始動因と目的因にとって変わったとみるのが当然であろう。しかしどのように変わったのか。
始動因と目的因を理解する上で重要だと思われるのが、形相因、始動因、目的因の三つはしばしば一つになっているという説明である。というのも彼は「事物のなにであるか[本質・形相]とその事物がそれであるためのそれ[目的]とは一つであり、そしてこの事物の運動が第一にそれから始まるそれ[始動因]もこれら[形相および目的]とその種においてはおなじだからである」(同上 p.70~71)と考えているからである。
となると始動因は目的や形相と同じものであると考えられるが、これらとの違いを理解するにはアリストテレスが始動因の例として出したものを見るのがいいだろう。アリストテレスは始動因の例として、種子、医者、勧告者という三つを挙げる。種子というのは分かりやすい。種は花になるための始まりであるからである。しかし医者と勧告者というのはどういうことだろうか。医者はある人に対して、健康になるためには運動しなさいと言う。この医者の助言を聞いてある人が運動し始めたら、その始動因は医者ということになるだろう。これが医者は始動因という意味である。同じように勧告者は善く生きるためには人を助けなさいと言って、人を動かす。この意味で始動因なのである。
この時どのように形相や目的と一緒なのだろうか。種子の場合は花になるため花という目的や形相と種子は根本的に同じであることが分かる。医者はある人が健康になるための原因であり、健康になったならば健康という目的や形相と同一であったと考えられないだろうか。つまり、始動因とは形相の欠除態に形相を与えるきっかけになるものなのである。
こうして欠除態がいかに始動因と目的因に結びつくかが分かると思う。
形相の欠除から形相の取得の過程においてきっかけになるのが始動因であり、ゴールが目的因なのである。
このように始動因と目的因はセットで考えなければならないのである。
3 偶運と自己偶発
アリストテレスは物事の原因となる偶然性を偶運と自己偶発の二つに分けて考える。この二つの関係は、自己偶発が偶運を包含しているという点で区別される。
偶運とは、友達と一緒に遊ぶつもりで公園に行ったら、たまたま好きな人がその公園にいて会えたというように、ある目的が偶然他の目的を達成するといったものである。これには意志が必要なため、アリストテレスは、偶運は人にしか起こらないという。自己偶発とは、屋根にあった石がたまたま風に吹かれて人の頭に落ちたというように、当初はなんの目的もないものが、ある目的を達成した場合の偶然である。
偶運が人に限られ、自己偶発は人に限られず物にも適応されるという点で、自己偶発が偶運を包括しているとアリストテレスはしたのである。
ではこの二つは先に挙げた四つの原因のどれに当たるだろうか。アリストテレスは始動因に属するという。しかし但し書きがある。「自己偶発や偶運は、理性または自然がそれの[自体的な]原因たりうるような結果を、実際にはまさにこれらのなにかが付帯的にそれの原因となっているときに生じる原因なのである」(同上 p.69)。つまり偶運や自己偶発は、他の始動因と違って付帯的な原因となるときに生じるのである。
先ほどの始動因の例をまた持ち出そう。医者が健康になるためにある人に運動を勧めた。それにより、ある人は運動をしたら、その始動因は医者である。また運動をしたことにより筋肉がついた場合、筋肉は健康になるという目的に付帯的に生じた結果である。つまり偶運なのである。
この偶運と自己偶発は始動因に属するということは、形相の欠除から形相の取得の過程においてきっかけになるのが始動因である、という定義から考えると、偶運と自己偶発は形相の欠除に形相を与えるものでなければならない。
偶運と自己偶発が本来の目的とは異なる目的を達成するものであるため、そもそも欠除態に属するものは間違いないだろう。そしてこの二つは形相を取得する。しかしこの形相は目的である。
欠除態とは否定的な表現になるのであった。すると偶運と自己偶発は本来存在しない形相を与えるものだからその始まりは否定的な表現にならざるを得ない。
こうしてアリストテレスの偶然論を見ていくと、欠除態というものは目的因よりも始動因に大きな関わりがあることが分かったと思う。
<引用文献>
アリストテレス全集3、岩波書店、1976年