亡き,実の父親を思っていたところへ・・・7月28日 早朝から午前4時過ぎだったろうか・・・「ばあちゃんが・・・たいへん・・・・」と家内が言って通り過ぎる・・・

私はベッドに横たわったまま,何事か・・・起き上がれなかった。「蚊帳」の外にいる・・・勇気なく・・遠くで悲しそうな声が聞こえる…・階下に降りていく。…

誰もいない。・・あの声は隣の家の犬の遠吠えだった。 8時55分?固定電話…余り出ないのだが・・・出てみると・・・元気な明るい声・・・・・

「ばあちゃん・・死んだ。」

「・・・・」 何も言えない。「いつ何時に? どうだった?」と聞けなかった。

その代わりに,「どうすりゃいいんだ?」・・・小声で,聞こえない?

「聞こえる?聞こえる?」連発していた。

話が噛み合わない。声も元気なく聞こないのか,

いや,それ以前に同じ土俵に居ないのだ。「いまどこどこにいて,・・まだやることがあるから,・・・それから帰る・・・」などと続けざまに言って…切れた。

 

帰ってきて,「ばあちゃん,いい顔してた・・・」

背中で聞いた。自分は最近顔を見て話していない。(二人とも)顔を合わせるのを避けてきた。居間にいる時間帯を避けて通ったりしていた。私のせまい部屋を通るのを憚っていた。ばあちゃんのいた母屋の茶の間がある棟とその二階の寝室と・・・増築した新居は無理やりつなげてもらった。尺とメートル法の違う構造。この2階の私だけの「新居」占拠室を避けるように行き来していた。静かに寝かせておこうという思いやり(有難い配慮)からだろうか・・それでいて無神経なドアの閉まる音・・・(おとなしく,寝ているのもツラかったりして・・・・

実質別居状態なのだ。  ゴミ出しと洗濯・・・に気兼ねしている・・・・自分が独立して別居すれば気兼ねなくていいのだが・・・・経済的にも現実的じゃない…と・・・悶々した生活を送ってきた。おばあちゃんの救急入院以降,さらに変ってしまった生活・・・ご飯を自分で買ってきて食らう生活はやはり異常である。冷蔵庫は小さくて,食材を保存したりできない。まったく“我慢”しているのだ。お互いに我慢をしている格好。わかりあっていない。同じ方向を向いていないのだ。これを愛って言えるだろうか。わからない。どうして平成6年(1994年)12月30日からずっと“同居”できているのか不思議である。「結婚し,子供を育てる」という社会の習わしを,まるで金科玉条のように信じて我が道をたどってきた。子どもが翌年1996年生れ,あまりにも順調に進み,遅ればせながらの,年甲斐もなく40を過ぎて「愛のある夫婦」を演じてきた。他の夫婦を知らないから,自分たちが異常なのかどうかは知らない。1999年男子誕生以降,生活はまた変って行った。子供中心の生活に。一姫二太郎。4学年違いの二人の子に恵まれ,子供たちのお陰で,いろいろ体験してきた。神社参拝・・・七五三祝い,狭い新居(と思っているのは俺だけ?)で,勉強部屋が,弟には十分やってやれなかった,何かと総領に対しての計らいと,次の子に対する計らいとでは格差が出る。申し訳ない。二番目以降には,手抜き?も出てくる。要領がよくなる。核家族,皆カップルは苦労するようだ。おじいさんや,おばあさんの居る二世帯家族がともに助け合って住む方が絶対良い。大家族が協力し合って,共に住むことができる家族が望ましい。それには代々受け継いだ稼業や裕福な家柄でないと,持てない家族形態だろう。生れついた出自,巡り合わせだと諦めるしかない。どうにもならない宿業。

といって,時間は待ってくれない。子どもを学校にやらないと。保育園や幼稚園。長女には,お寺のT保育園。その後公立の学校付属のF幼稚園に。(われら,つまり子どもと親とが関わって園を盛り立てていた。構成する人々があっての学校経営なのだ。今思うのは,我々家族も他の家族も皆,学校という機関の構成員なのだ。その一部を成していた。学校という建物は箱に過ぎない。人々が居なくなった淋しい学校が廃れ始めている。F幼稚園のプールが再開し,使われるようになって賑わいを取り戻したのも一緒に入園した子供たちとその家族があったからこそだろう。今はプールは雨水がたまり,草が伸び放題,廃園になっている。(そこで無邪気に過ごした子供たちはそれをどうみているだろうか。自分の育った環境をぜひ見て境涯を改めてほしいと思う) あの当時のPTA会長(幼稚園部)は,早逝して今はいない。私よりずっと若い女性だったのに・・・・。別の家族も今同町内会から移転してしまっている。共に小学校でも役員として頑張ってきた仲だった。子どもは大きくなって皆変ってしまう。親たちも歳も取って,変る。子どもを通して家族ツナガリ,学校ツナガリがある。自分という枠を越えてつながっていた。それが社会。ひとつの社会。私は自分の勤める学校社会つながりもあった。そのツナガリを終えたと,しみじみ思わされている。65過ぎるとサヨナラなのだ。そして67まで働き続け,・・・・今自分という一人の枠に戻ってきた。つながりがない個人の世界に。枠の外にいるとは,・・家族の枠・・・家…つながり・・家とは何か? 血縁? どうしてつながっているのか?

遺体のある,通夜を控えた葬儀屋ホールにて・・・ずっと見てくれている義妹さんに,吐露してしまった・・・・心のままに・・・・。

「おばあさんはもともと 他人だから・・・」と言っていた。何という無礼な?

おかしなことを・・・・と思ったろうに。

「もう長いんですから・・・・他人じゃないでしょうよ」抑えた声も聞こえてくる。 

(それが社会常識というものだろう。確かにそうだろう。・・が・・・)

著名な哲学者や宗教研究者らは皆一様に・・・「自分の墓はいらない。骨は蒔いてくれ,どこかに・・・鳥葬,山の樹木葬でも,海にまいてもいい」と・・・。

「仏のものさし」と「世間のものさし」がちがう。その表現は好きだ。ひろさちや さんのご指摘です。感謝合掌