昔ならドロップアウト カンパネラ いいね 

 

さて,貴重な本の要約記録を・・・・まだ途中だったのだ。

第一章 罪悪深重の自覚 メモ

・岩佐雅博君当時17歳 中学時代から陸上選手として活躍。よくあるスランプの脱出寓話。

挫折からの転向方法。地域お寺の聞法会で配られた『善と幸福』冊子と『歎異抄』を見つけ何の気なしに読んでみると・・・仏智と人知の違いに驚く。ありのままを知ること・・・・が「信ずる」ことだと。《こう打って来て,何か変った。》

「ありのままの自分を知っているか」――さっき,自分が自我が強いとメモした。その時は気づかなかったことだ。『自我が強い』といっている自分は実は本当に知っていたのか。「信」と記したが,それは即「歎」に通じた。そして内面の自分は遠く高校時代の自分を思いやっていた。ありのままの自分を「知っていた」ろうか。

《知っていなかったではないか》という感「歎」である。「異」。それは過ち,誤りではないか。<そう書いてあるのだが・・・>それが罪かどうかは知らない。法の観点から,罪となるのか。真宗の「同朋」としてなら罪なのかも。

私は岩佐君の行動が好きである。勉強部屋の壁に大事な言葉を掲示する行為。第一章を書いて掲げる。だから私も上に掲げた次第。

ところで,第一仏は不動明王。初七日。「のーまくさんまんだーばーざらだん せんだーまーかろしゃーだー そわたや うんたらた かんまん」と真言する。第二仏は釈迦如来。ふたなのか二七日。「ノーマクサンマンダー ボダナンバク」。第三仏は文殊菩薩。みなのか(三七日)。「オンアラハシャノー」。第四仏は普賢菩薩。ししちにち(四七日)。「オンサンマヤサトバン」。第五仏は地蔵菩薩。ごしちにち(五七日)。「オンカカカ ビサンマエイ ソワカ」。第六仏はろくしちにち(六七日)の弥勒菩薩。「オンマイタレイヤソワカ」 第七仏はしちしちにち(七七日,つまり四十九日)の薬師如来。「オンコロコロ センダリ マトウギ ソワカ」※出川哲朗さんが電動バイクの旅先で拝んでいたっけ。愛媛県四国88カ所の一つでしたね。

ここからやっと第八仏の観世音菩薩。百ヶ日供養。「オンアロリキャソワカ」聖観音菩薩,土浦の無住職の寺を住民が守っていた。第九仏の勢至菩薩。一周忌である。「オンサンザンザンサクソワカ」 第十仏は三回忌 阿弥陀如来 「オンアミリタテイゼイカラウン」 第十一仏は七回忌の阿閦如来。「オンアキシュビヤウン」 第十二仏が十三回忌 大日如来。「オンアビラウンケンバザラザドバン」 ア・ビ・ラ・ウン・ケンは, 地・水・火・土・風・空の五輪の塔,卒塔婆だった。第十三仏 三十三回忌 虚空蔵菩薩 「ナウボウ アキャシャ ギャラバヤ オンマリキャ マリボリ ソワカ」 唐に渡る前に土佐の「ほつみさきじ」岸崎の洞窟で,空海さん(弘法大師)が100万遍称えたという称号,真言。

真言宗智山派の「智山勤行式」を元に,各派のいい所どりで,懺悔文,開経偈,三帰礼文,十句観音経般若心経と,聖不動経(真読)を暗唱。十三仏と六観音(七つの観音菩薩)の真言も含めて,くりかえし唱えてきた。自己流自我流。真言智山派(南無大師遍照金剛・・)+南無阿弥陀仏+南無妙法蓮華経・・・・いずれの仏も欠かせない存在。いつからだろうか。2013年貪瞋癡を記し以後きっと関東三十三所観音めぐりに。10年来のお付き合い。毎日真言と心経と唱えていた。しまいにはキリスト教の新教を持ち出して・・・・。どうして一つの宗派じゃないといけないのでしょう。宗教戦争を言い訳にしている。民族宗教の対立抗争。その主張は変っていない。しかし,それは偽りか?信心の実態はどうだろうか。

みんなまとめて拝めば功徳がつくとでも思ったか。御利益があると勝手に思っているかも。なんら変わらない。神だのみ 仏だのみ。これが「当てにしている」か。軽蔑してきた神社信仰と変わらない。仏教より神道の方がイイかもと…思ったりもしたっけ。シンプルイズザベスト。金もうけに走るお寺業界。何であんなにギンギラギンなの?栃木県中禅寺湖前にある「立木観音」堂の若い僧侶(案内人)さんは,正直なお人だったのだ。「ウチは檀家さんがいないので…こんなのを売ってやりくりしてるんです」と苦境を述べられていた。お坊さんの言うことじゃないと非難が先に立っていた。白衣を身に付けていない三十三所めぐりをしていたら,詰られた(なじられた)ことがあって・・・。まさにそのときは亡者であったなあ。ハマる・・・我執 

どこかから聞こえてきた。なんでそんなに多くの信仰?に染まるの?邪見を非難する声がどこかから・・・。

続(3) 合掌