仏教の物足りなさ感です。世界で困窮しているのに日本の仏教界は何をしているのでしょう。

困った人に手を差し伸べ救っているのはキリスト教徒ばかり。かつてテレビで浄土真宗の若いお坊さんが市井のホームレスの人たちにお弁当など配っている映像が流れていましたが,こんなケースは稀であり,大阪など都市部で当然のようにキリスト信者グループが日常的に広く活動なされているのが報じられていた。おそらく各地方の支部でも連携を取って働いているでしょう。その積極性は何処から来るのでしょう。布教活動なのでしょうか。輝いて見えました。

そこで持ち留めていた「新約new testament」を今回初めて開いた次第でした。あの「積極性」は,聖書のことばの中に現れていたことを知りました。全節を通じて,そう感じますが,あの”POWER”こそ,象徴でしょう。・・・・・「権威」。ルターによって新教になっても,あの男性的家父長主義は,変わりません。ことばは変らない。前に「CURE」(HEALの項で,治療を意味する語として)と書いてしまったが,当時医療に携わる専門医師などいたはずないのでした。何もない沙漠の地で,争いが絶えず病や争いに辛苦していた,あの時代は,それでよかったのかもしれません。・・・・一神教。ユダヤ,イスラム,キリストと多くの宗派(賢人)が多分競い合っていた中で,排他的になるのも自然だったのかもしれません。人間が最高位にあって他の生き物を支配する,西洋の近代文明もその宗教とともに広がったと仰る哲学者がいた。梅原猛氏です。日本人の民族性を,哲学を通して観ておられます。日本は多神教の国。弥生前の縄文時代こそ,と仰る。バリ島に見る多神教的霊性。それは一人日本のものではない,と。それを天台密教の「草木国土悉皆成仏」の天台覚思想に信託している。人間だけでなく,あらゆる衆生,動物も植物も,そして鉱物にさえ生命がある,というのだ。この思想は捨てがたい。西洋近代科学文明の成果が核兵器や環境破壊などであったら,それとともに発展普及したキリスト教が絶対かと疑問も起ります。神の世界は,分らない。日本の神道イズムも胡散臭くあったし,妖怪だ。奇跡は信じがたい。魑魅魍魎。でも何かに祈るには居られない現実がある。信教の自由だけは残したい。生と死はいつも繰り返される。恐らく地球という生体がある限り。どこから来てどこへ行くのかわからない。石のように強くありたいものです。感謝合掌