最近見た漢字〇〇さがし・・・・

結局見つからなかった。半日かけて書籍をあさっていたことになる。今まで絶対出来ないことであった。40年に及ぶ定期のお勤めでは,出来ない仕業だ。しかし,この世に,無駄なモノはない。つながっている。とすれば,この愚かしい行為も記すしかない。

「長広舌」だなと,書く作家さんを思い起こしている。どうも本質的で,仕方ないのだ・・。

ついに,言葉(漢字)〇〇は見つからなかった。「賢人」の傍らにあった言葉なのだが,思い出せない。

絶対見たはずなのに・・記憶とのたたかい? 認知症や老人ボケを認めたくない?

しらずしらず無視していた概念。賢人とか,偉人とか,賢者とか,エライ人は苦手なのだ。自分と遠い存在。それがわかっただけでも有益だったとしよう。

『魂とは・・』(池田晶子著)にはないな,趣向が異なる・・・,その一方で『92歳の伝言』(高見澤潤子著)は優しく声をかけてくれる,その方が合っているなと最終的に判断された。その間,後から見つけた自分の書棚の,苦手な虫の蛹か何かが白い鞘を頁間に残していた文庫本『生きるために死ぬ本』も見返していた。その倍,三倍も読み返していた(=スキャニング)小林秀雄の妹さんの書いた本で落ち着いた。ついに見つけた「賢人(賢者)」の用語。その伴走者の語〇〇は見つからない。もうあきらめた。珍しいことだ。give upするとは!! なんのためにこんな無用に見えることをしているんだ,とハッと気づいたのだった。してもしょうがないことをすることを「癡」というんじゃなかったか。煩悩の中でも最悪とよぶお坊さんもいらっしゃる。私は元より「貪欲・瞋恚・愚痴」の三毒が深い。とりわけ羨望や嫉妬心が強く,その元凶が何なのかとずっと意識されてきた。それを今この瞬間,想っている。ギブアップは諦めであると考えれば,無明から少し頭分出られたと思えば前に進歩したことになろう。<なんてバカなことを言ってやがる!>

さて,前置きが長かった。昨夜見出したことは,二つのゴール。一つは,石川忠雄氏の意見「戯去戯来,自ずから真あり」(ぎきょぎらい,おのずからしんあり)と,読むようだ。氏の言葉ではなく福沢諭吉の弁説らしい。前掲『死ぬための生き方』(新潮45編集部)からの引用。その前の掲載者・山田風太郎「死に支度無用の弁」より多く,結局真摯に伝わってきた。実は私に親いのは「やまだふうたろう」さんの方だ。なぜなら,「長広舌」を自ら発している作家でしたから。ちょうど並ぶように論じ?られていた見事な文節に感激していた。あまりくどくど申し上げると墓穴を掘るので,やめよう。数日前,reading through(scanning)で読み切ってしまおうと焦っていたが,改めて読み返してみて,さきほどの〇〇漢字探しも兼ねて・・・どうも中編ころからイヤに戦中派の戦争体験が多くなり辟易気味だった。しかし,である。良く読み返すと,理屈に適っている。死が戦後非現実化してきて,忌諱され死相が見えなくなってきていることは事実だと思われた。昔,戦前戦中,そして戦後間もなくの頃は,周囲に「死」があった。当たり前のように。・・また長くなってきた。

石川氏は「特攻隊員」だった。「出撃しないで済んだため,敵艦を目の前にして突っ込んでいく時に,瞬間的にどう死と直面しえたかはわからないけれども・・・・と,真摯に自分に対面しておしえてくださっている。こんな貴重な体験談はもう聞けない世になっている。〔いしかわただお(大正十一年生)慶応義塾塾長〕と記されている。母の3年後輩になる人だ。今年は大正113年に当たる年。母が生きていれば105歳か,と今朝思った。

氏の解釈では,「宇宙から見れば,人間は小さな存在でしかない。人類の歴史から見れば,自分のやってきたことはほんのひとコマであり,いわば戯れ(たわむれ)みたいなものでしかない,しかしその戯れみたいなことを真剣にやることの中に真実があるのではないか

『禍福は糾う縄の如し』も引用されていた。<これは『人間万事塞翁が馬』,私の座右の銘としています> 私は大事な名言を手で書いてメモした便箋をファイルに録っていた。だいぶ前,間誤付く精神の気休めにか,月給取りにようやく勤め出してからだったろうか,余りにも古い。それにはこうある↓

宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云ふも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は此芥子粒の上に生れ又死するものにして生れて其生きる所以を知らず死して其死する所以を知らず,由て来る所を知らず,去て往く所を知らず,五,六尺の身体わずかに百年の寿命も得難し塵の如く埃の如く溜水に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し

左れば宇宙無辺の考を以て独り自から観ずれば日月も小なり地球も微なり。況して人間の如き無智無力見る影もなき蛆虫同様の小動物にして石火電光の瞬間偶然この世に呼吸眠食し喜怒哀楽の一夢中忽ち消えて痕なきのみ  福翁百話 人間の安心 」

これって,広く普及している思想ではないか,と驚くにあたらないと今さら感じる次第。

でも言い当てて妙ですね。

「つきつめてゆくと,落葉のかげや土の中で息をひきとってゆく虫やミミズなどのほうが,人間よりはるかに宗教的な死をとげるのではないか。死ぬからと大袈裟に騒ぎ立てるのは人間だけだ。死の最高の形態は鳥獣の死である。人間は虫やミミズを見習うのがいちばんの死の準備ではないかと思う」と,書いてあるのを思いだして抜き出した,その作者は,なおも「山田風太郎」であった。氏も大正十一年生れ。作家とある。どなた様にも寡聞勉強不足,大変失礼しました。

本論は次回に。  感謝合掌