ベッドで足先をまわす,・・・佐藤友美さん(84)だったか,言っていたのを思い出し…今朝,と言っても11時前だが,起きて体操をした。伴奏なしで,ラジオ体操第一,続けて第二を。とにかく覚えているからいつでもどこでもできる,もっとも簡単な体操方法ではある。(しかし,セッカチになると,体の呼吸などかまわず,はやまわりとなり,むしろ疲れるか?体に適しているか,疑問だと振り返る)朝起きたら体操だと昨夜思って就寝したからだが,ラジオなどの音響に頼らず,今までは録音したラジオ体操を流したり,8時40分の時間に合わせたり,試してきていた。でも慣習的に行うには,ラジオ放送での決まった時間でやるのが一番イイ。明日からそうしよう。時間を守って起きることになるから。起きるのが,以前よりだんだん遅くなり,いいことなかったことを反省する。

ラジオ体操を伴奏なしに,第一から第二まで,きちんとできた。身体は覚えていた。長年やってきた習慣。身体も確かに血の巡りや関節をまわしたり,全体に調子が良くなることは感じていた。続けたい。つまりこれが自分流の「きわみ」の一端なのだった。決して晴れ晴れしくないが,地味でイイのだ。人に言うには恥ずかしいほどの自分流。セレブ達の一流を目指すことはできない。小さい自分の背丈にあった工夫こそ極み,「市井の」とは,そういった意味である。これでもちょっと広すぎた。巷,市井はまだ巻き込んでいない。「自分流」で,充分でないか。

 今まで色々な本を読んできた。テレビ(ビデオ)でスポーツ選手のパフォーマンスを観たり,皆一流を目指して華々しい成果を披露する。小林秀雄もその妹の高見澤さんも「一流」である。評論,劇作家として田河水泡なら漫画の世界で。各分野で皆一流。中山秀征さんも楽しく語りの裏には「スター」になるべく上京し劇団に入って苦労して掴んだ,テレビパーソナリティ,だから「平民」は「王女」タカラジェンヌを見つけた。書道の個展まで芸を発展させている。水沢アキさんも市井の少女から外国青年のガイと結ばれあこがれの対象,65のグラビアまで世に送る。蔽い出す人みんな,一流であり,極めている。羨望の的となる。大谷選手も,卓球の張本選手も,映像に載る,本に出る,テレビに登場する,皆が羨望となるスター,極みなのだ。それらを羨望しているのが一般の観客・視聴者。いつまでもああ,いいなあ,と仰ぎ見るばかり。羨望しああなりたいとと望んでも,その格差を思い知らされるだけ。何か不満が残りいつまでたっても満足しない。自分はそれを求めているのにさっぱり同列に並ぶことはない。比較,たとえること自体が無理難題。

そうして思い至ったのが・・・一流の極みにならなくても,市井の極みになればいいではないか,である。元よりスタートラインが違う。いっしょに並んで競争する方がおかしいのだ。生まれつき平等ではない。生まれも違えば,才能も違う。出来が違う。見た目も格好良くなる素質があるとは限らない。そういう運命の中に仕組まれているのだと考えれば腹も立たない。嫉みや僻みも起らない。一つ抜けたような感じだ。とにかく一日の勤めとして体操をしてから,この「極み」をまとめようと・・・ココに至る。

平等,公平であるべき‥そういった思想を植え込まれていないか。本来,比較できない。同質ではない。違い過ぎて例えてはならないのだ。平等であるべしという固定観念にとらわれていないか。有名人や成功者が言っているからといってあなたに通用するわけではない。自分で見出すしかないのだ。それが自分流,市井の姿となる。

病院での見舞い風景:日米の違い

日本では,「ともかく治療に励んで,元気になってください」とか,「ガンバって早く良くなってください」とか,儀礼的になりやすいが,

  

アメリカでは,病気の相手のことを思いやる言葉かけにつとめる。

元気になるような話題を用意する。普段の日常の様子を報告するだけでも

「あなたの〇〇さんが何々したのよ。キレイな〇〇を植えたんですって。・・・」

高見澤潤子さんの引用からの自分流の理解言い換えである。

catholic 「博愛の」国民性だろうか。見ならうところ,大だ。