6月19日夜 読み終えた。そして次の戯曲『ワーニャ伯父さん』に移ろうとしていたのだが,そのまま通り過ぎてしまうにはあまりにもゲンキンで軽すぎる気がした・・・そして今日起き出して9時半過ぎころからずっと何もしないまま考えていたら11時を過ぎていた。ビックリした。なぜ青年はピストル自殺をしたのか。彼女ニーナとの関係は? 「私はかもめ,」というセリフがモンタージュされている・・・果たして各人が皆同様に見えてきた・・・誰一人まともな人がいないではないか。唯一,しがない?「先生」だけが今の苦境を受け容れてまわりの人々に対し尊敬の念を忘れず聖人然として振る舞っている。そこに「救い」(魂の自由)が見られるが,家事を見ない女房に足蹴にされて子供をかわいがる亭主は妻を介して義父に嘆願した馬にも乗れずに6キロを歩かされて席を辞去する時,きちんと挨拶をしている・・そんな願いもかなわず女は賭け事に気を紛らわして放蕩に身を置いている。<現実,それは受け容れられようか。即,夫婦不和だろうに> それでも,丁寧な物腰で別れを言う先生の人間像も作者の投影だろうか。色々と想念がめぐる。物語は決して,ロシア文豪のドストエフスキーらとたとえられ,その比ではないと勝手に思い出されたが,場面背景は類似している。その作風,各人のプロジェクト力(霊性)は単純なようにみえる・・・こういうのは,また新しい自由な想念なのだ・・・・二時間余りの間に考えていたこととは違っている…瞬間瞬間で少しずつ変わってしまう・・・・。ともかく,もう一度おさらいしてまとめておきたいという欲求が起きた。

 

戯曲『かもめ』の「人物」 

アルカーヂナ 嫁ぎ先の姓はトレープレヴァ,女優

 ※一番目に登場人物として掲げられているのはやはりメインキャストだからだろう。彼女の位置づけが,わからない。嫁ぎ先の姓,トレープレヴァとあるが,それは夫(の姓)に当たるはずだが,登場しない。しかも戯曲の場面は「ソーリン家の田舎屋敷」とある。兄・ソーリン(↓)以上に実家を取り仕切っているように見える存在だ。賭け事(※Loto別記)の掛金も自分で出さないで兄に任せて当然のように兄は了解して興じるのは伝統的なロシアの家庭娯楽のようだ。高貴な?身分だけが愉しむような,貴族性がかいま見える。マーシャも,その点で,似ている。厭世的である。

ソーリン アルカーヂナの兄   

  彼がソーリン家の嫡子で家督なのだろう。アルカーヂナは,馴染みの「実家」に出戻っていることになるのだろうか。息子も一緒に。その息子が

トレープレフ

  夫の姓を取って,その名に現れている。総領だろう。しかし自殺してしまう。

 居間を解放されて書斎(書き物をする),しかし客があると賭け事に占領され居場所がなくなる…その隙に悩みは解消されず・・・テーマが共通・・・になってくる・・・・母と子の関係・・・男と女の関係・・・・それは歳 若い青年少女だけでなく,年寄りも絡んでいる・・関係も映されている。 年齢では一番上が62歳位か。ソーリンもニーナに絡んでいる。

ニーナ 

 「若い処女。裕福な地主の娘」と,ある。若い処女とはビックリな表現だ。若い女と言わずに敢えて処女。そこも妙。地元を離れ,モスクワに出る。女優を目指す。アルカーヂナとの対抗意識もあるだろうか。「鴎(かもめ)」の題の元となる人物。キーパーソンであろう。でも謎めいている。悲劇の契機になっている。

マーシャ

 年齢順,家長制度の旧弊からか,人物紹介では後回しされているが,実際はキーパーソンのひとりだろう。そして唯一夫婦の中の娘として位置づけられて登場しているのだから。 つまり,ソーリン家支配人の父とその妻と一家を形成する娘役は,彼女だけだ。

シャムラーエフ  ソーリン家の支配人,退職中尉。50代だろうか。コチラが60代だったか。

ポリーナ その妻。

トリゴーリン  文士 とあるのみ。

しかし大きく影響を及ぼしている人物。年齢が不明だが,メインキャストのアルカーヂナと仲がいい。まるで夫婦みたいに振る舞っている。そして若い処女ニーナをも惹きつけて,トレープレフと決闘沙汰まで起こす。トレープレフも作者の投影だろうが,彼も作者の投影。世慣れしない生娘とは田舎から離れてモスクワで落ち合って遂に結ばれているのだが,詳しくはかかれない。二年の経過ですましているが,人間は変貌?中味は変らない。本質は変わらない,というテーマもあるようだ。若いニーナとはうまくいかないで,元のさやに戻る。その鞘先がアルカーヂナなのだ。田舎にいた時点でのすれ違い(不合一)は,既に現れていた。文士の奇妙な態度,少女に対する憧憬というか,純粋性・詩人ポエム。漱石の門下生だった森田草平の心中未遂事件を思い出された。平塚明子(らいてう)との栃木山麓での若気の至り,ウソのようなホントにあった事件だ。戯曲の主人公のように綺麗?に(潔く)死んでいくはずだった。ポエジーの中で埋没する。現実から遊離した心情。女から提供された懐刀は山に投げ出されて雪山に飛んで行った。「どこへ行ったのだろうか,まだどこかにあるはずだ」と思ったものだ。若い文士気取りの青年学生・森田草平は自分の妄念の中で自分だけの世界を勝手に描いていたのではないか。明子との何かかみ合わない男女の絡みが奇妙である。その若者のイメージが,トリゴーリンの姿とダブったのだ。≪文士がモテたという説明が戯曲の序説にある。そういう時代背景があったように思う≫ 文士の「若い処女」に対する意識行動も「カモメ」の一題材であるにちがいない。射られたカモメ(遺体)が若い女の前におかれる(そのイメージはずっと貫かれていく)・・・この出来事がいろいろと象徴しているようだ。鴎を撃って殺した男は永久に女性を得られない。射られた若い女も満足を得ない。変ったのだろうか。否。本質は変わらない。すれ違って,生きる。生き違う。人生は皆生き違っている。各人がお互いにすれ違っている。作者の意図はここらあたりにあるのでは? と,最終的に思い至った。

トリゴーリンは,その投影の代表なのだろう。男性として最も異彩を放っているのは彼だけだ。自殺する青年も,マーシャと結婚する青年教師もパッとしない。これがホントの実体ではないか。つましく慎ましく生きている。活劇はない。演劇の醍醐味がココにある?と,むすんだら老境でなくなる。演劇も映画も小説も何ら現実ではなくなる。死とは無。

 

戯曲のおもしろさ・・・・

 小説と違った・・・実は同じなのだろうが,・・・・舞台は一幕だったり,二幕だったり,そう度々変えられない。スポットライトが当たる配役人物は,一人。一カ所だけだ。観客が目を注ぐのはどこか。もしトレープレフがコトバなく登場したとしても,それは意味がある・・目がそこに注がれるからだ。つまりすべての演技者はそれぞれの演技での主役となれる,否,主役にならざるを得ない。ニーナが何かを演じるとき,アルカーヂナは,陰に隠れて見えない。ライトは当たらない。我々の心の内に残ってはいても,スポットライトは目の前の登場人物にあり,意味を成す。それは作者の意図である。無意味な出演はない。料理人や小間使いの演技も何かしらの味付けをする。

 

未だ「人物」が終っていなかった。

ドールン 医師。

メドヴェーヂェンコ 教員。

ヤーコフ 下男。

料理人

小間使い  以上。

三幕と四幕の間に二年間が経過・・とある。

 

人物の中で,メドヴェーヂェンコがなぜこんなに後に出てくるのだろうか。存在感がない。それはツマラナイ存在なのか,日常なのか。

 

物語(筋)は,日常から始まる。メドヴェーチェンコとマーシャとのやりとり・・・男は教員だから,マーシャは,たぶん,教え子という設定だろうか。<舞台ではないので,顔の表情やいでたちなど見えないので,文字による映像化は読者まかせとなる> 現実に最も近いやりとり(登場)。マーシャの家族環境の提示は背景を物語る。退職軍人(中尉。出世コースの「大将」などでない所がミソ。中流の象徴。下士官の身分だ。決して下層階級でもない)そして今,名家?の支配人。といっても,下僕に過ぎない。支配人とはサーバント,召使いの身分だ。階級や年齢などの格差,懸隔も問題視されているだろう。しがない身分地位に甘んじて,当てもなく生かされている年寄り連中のツマラナイ日常のやりとり(葛藤)も披露されている。その子どもには,なぜか,否当然の如く,覇気(生気)がない。マーシャはすでに「憂鬱」感にまみれている。生きる屍にも見える。何も期待せず二人は結ばれる,ドラマ性はない。そこに感動などはない,日常の顕現。それはフォーカスされない<が,実は示していたのだ。裏事情こそ真実が隠れていたかもしれない> 人生オモシロく生きたい,劇的な人生,それがネタ(種)だろう。

 

 若い処女が簡単に誘惑されないし,自殺に追いやられることもない。

あってたまるか,が現実。それでいいのだ。

 

※別記 「Loto」 

 数字合わせの遊び。1~90の数字をとびとびに記した盤を配っておき,一人が袋または筒から一つずつ取り出しながら刻まれた数字を言う。盤上の数字が先に埋まった人が勝ち。

 

 こうインプットしていると,思い出されるのは中国の易,「卦」である。当たるも八卦,当たらぬも八卦,という。この世は人智を超えた神の域,神秘主義。まさに若松英輔氏の謂う『易学入門』だ。中国由来の日本の易は,たしか,竹札か,あるいは,植物の札か(名は覚えていない)を使う。8×8=64本+1本,計65本使用では? そのお呪いの方法が面倒で覚えるまでもない,易者専門性があった・・閉口した・・。

 

とまれ,このLotoも賭博の一つだろう。掛け金を使う。ロシアンルーレットのようにロシア社会を映す。現実のつまらなさから離れるべく興じるのだろうか。それを堕落と言ってさげすむことはできるだろうか。生と死。なぜ生まれたのかも知らない,そしてどうして死するかもわかっていない。それが共振させるのかもしれない。人の心を。精神を。魂を。実生活よりも真実がある…実在,実存在とは?意味論的哲学といった若松氏のことばが甦る。神秘性を解脱できない。ロシアだけではなかった。アメリカ 初期フロンティア西部劇でもポーカーが行われていた・・カードゲーム。あれも同様な遊びでなかったか。虚無。最も嘆かわしい遊戯だと思ってきた。低俗な賭け事,命を賭けることの意義。その危険性を指摘してもいた。自分はその低俗にハマると思った。ダンテ『神曲』を理解できるか。関心が続かない・・・これも氏の預言であった。感謝合掌