復路,新開地と時代の差を感じさせた公道に戻って,「もう疲れて,足もしんどくなって一層よぼよぼに見えたのだろう」…国道を渡るのに,車の往来が切れない。右が切れたかと思って左を見ると後から車がやってくる。一度合間に走り抜けようかと,体勢を車道に入れようとしたら右からすぐトラックの影が見え,引っ込めた。仕方なく路辺を歩いて間をつなぎ,横断歩道前で待っていると,10メートル手前で右側からのトラックが今度は停止している。なぜ,と思いながら左側車線に目を向けると軽車両の車がやはり停止しているのが見えた…すぐ手を挙げて礼を表して感謝を示す。顔を拝見し目を合わせるゆとり無し。時間を取って申し訳なさから。右の車の運転士に感謝を表し,左にも謝意を表す。横切ってからもトラックの背に向けて再び念入りに感謝を体で表した。「ありがとうございます」 心から有難いと思った。そして下を向いたまま再び思念に戻る。「まんざらじゃないな,この世間,」「否,まともだなあ」と,うなっていた。それにひきかえ,「自分は何と,まともじゃなかったなあ」とつくづく反省していた。路辺の排水溝の金蓋の格子の溝に黄色い小さな花。可愛い小さな黄色い花が沢山一斉に顔をのぞかせていた。排水溝のふたの格子は,新しく縦横10列ずつはありそうなのに,なぜか,端だけに咲いている。窮屈そうにそれぞれの枠の中に詰まって咲き競っていた。住宅街のひと隅で。土が入り込んだ格子の枠の中だけに,狭苦しいのにメゲズに今を盛りと咲いていた。

 いい思い出ができた。忘れないうちにと記している。スマホの写真に撮らなかった事例が一つある。往路で坂を上りがけ舗装道路上のこと。かがんで登る地面の上に,白い文字で・・・「歩・・行・・者 注 意」ワイドに引いて初めて認められた。一瞬わからなかった。「歩行者が何に注意するのか?」 しばらくして,「歩行者に注意」か,と分る。

誰も歩いていない,ひっそりと静かな田園の坂道。自動車が時折忘れたころに通るくらい,往来の少ない道路。人の歩く姿はないに等しい。山(丘)に入るとひんやりするほど影が薄くなる。それでも時刻は午後三時。陽は高い。陽当たりが眩しいくらいの5月30日,好天気。陽気は初夏の温かさ。田圃の田植えの終った,水面には,油で中が見通せない。泡も出ている。生き物の呼吸か。濁って汚らしい。その下でも生きている? じっと見ていられる,その時間がありがたい。

右側の田んぼから,雁らしい首の長い鳥が,一羽,あの重たそうな体を風にはためかせて曲りなりにも跳んできてとまった。人影に気づいて,避けているのだろう。風に流されて,田から田へと飛び移るその姿は,たどたどしい。その田地が好きなのか?復路で又見た,その雁は,愛用の田から,こんどは,二羽が,つがいのように,飛び立って行った。どこへいくのだろう,ぐるっと回って去っていく…人の目を避け,忍んでいるかのよう・・・。

国道を超え,線路をまたぐと,そこは慌ただしい,現実の世界から,まるで秘境へと入る。此岸と彼岸との境を越えるかのよう。夢想するにはもってこいの環境。しかも,いつか来た道なのに,新鮮である。買い物以外で散歩に誘われたのは,何年ぶりだろうか。ジョギングをやめて,せめて散歩をと片道5キロコースを選んでいたものだ。なぜ今日なのか。

『作家の老い方』(草思社)のおかげだ。冒頭言の「松尾芭蕉」はさておき,実質的に一番の作家は,「あさのあつこ」さん。一番感慨深いかも。女性陣が三人つづいて,やっと男性群。ココでも男性たちは,元気がない。そして,なぜか性にまつわる話になる。異性をからめた話が多い。男同士集まっての話題も他人行儀の「男」面が多い。男性社会の通俗一環から離れられないようだ。

それでも,その男性群の一人のエッセイに影響してしまったようだ。・・・数えると,山田太一,河野多恵子,・・・谷崎潤一郎,筒井康孝…と来て,13番目となる「富士川英郎」氏。元大学の教師だという。鎌倉にお住まいで,午前11時頃起き出しては,自由にのん気そうな生活を送っているようです。具体的に述べられ,親近感があった。午後一時か二時頃に毎日散歩に出かける,雨天でない限り,二時間近く山道を散策するらしい。行きつけの喫茶店があって,潤っている。うらやましくなります。が,それはそれでいい。そして,自分も自分らしく,地元を味わえばいい・・落ち込むまい。本を読み出す最も至福の時間は午後9時過ぎになるという。それまで人との交流も含めて活動が豊かに見えた。閉じこもって一日中文字との自慰行動に頼ってばかりでは,気が滅入ってしまうのは当たり前だと気を改め,見ならうべく,身支度開始,行動に出た次第。結果は大正解だった。新しい試みはいつも新鮮である。かつて辿った行路なのに,新しい感動がある。長くなったので別建てに。感謝合掌