17年後二人はショパンの街を歩いていた。

「小さい頃のことを考えるとここまで来られたのが不思議・・夢のよう・・」(母 いつ子さん)

 

2005年ショパンコンクール ショパン音楽院ホール  世界35カ国から 過去最多の314人がエントリー。一次予選前に 初めて予備予選が設けられた。年齢資格が17歳から27歳まで。名だたる名門学舎の卒業生らの出場者たち…ステージ上には一台のピアノ・・・一生に一度の勝負に挑む? 重圧・・厳粛な・・・雰囲気に包まれて・・奏者の思いや緊張が伝わってくる・・・「ノブユキ・ツジイ」 名が呼ばれて ピアノの前に手を引っ張られて入場・・・

介添えは・・川上先生ご本人か・・・椅子の高さを調節すると・・・演奏開始。

「ショパン エチュード作品10-1」~「 〃10-2 」~「ショパン ソナタ第3番」

・・プロでもミスタッチするという難曲の一つ・・ 本番に強い伸行さん,本領を発揮し,弾き終えた。・・<演奏直後の楽屋風景が感動的だ>

ステージ専属の専属カメラマン二人が,腰かけている伸行君に向かって,カメラをローアングルから撮っている。映像動画の進行役が,どうですか,今の気持ちは?と声をかける。

「ホッとしました やったという感じがします」 さらに深く追求する・・「完璧?」 

「よくこれだけ弾けたなと・・」身体をゆすりながら応える伸行君。

傍らで神妙に控える恩師の川上先生は,問われて・・・

これだけ弾けたら何も言うことはない たいしたものです」と音大講師の指導者・川上先生が漏らす。41:04 「・・・何も言うことはない」を繰り返す・・。感極まるではないか。

後で合流する,母親が手を差し伸べると,身体全体を揺らして表す「はしゃぎよう」喜びを体で表す伸行君。満面に笑み。お母さんの存在は格別だ。カメラマンやビデオカメラの前で抑えた,控えめな,お母さん。きっと抱きしめたかったでしょう。小さな言葉や息遣いで恐らく感じ取る・・音のない楽屋・・・しーんとした中での感動の表現がそこにあった。母と子,人と人との関係がジーンと響き伝わってくる。「一安心・・生きた心地がしない・・・」と母親らしい弁。257人が予備予選に出たという。うち80人が一次予選に進みます,のナレ―ション。選考結果掲示板前・・・母子で手を繋いで見に行く。番号と名前が載った掲示板を前に・・日本からの同伴者?に指差され,「あった」と歓喜。「なんて書いたあるの? 「67. Mr Nobuyuki Tsujii Japonia」

(Rosja  Chineska  Polska  Francja が並ぶ中に・・・ノブユキ・ツジイ ジャパンが)

歓びの身体を揺らすポーズ 一歩遅れた,例の身体動作 彼の個性・・・肩を叩いて喜びを共感する母親。これこそ絵になる・・映像の「美」なのだ。「かわかみせんせい,ありがとう」と言って先生から差し出された握手に応える伸行さん。

「67番なんだ」と,意外にのん気なお母さん,いや,したたかさ? 

 

<二次予選> 

伸行さんの弾く,音色は ショパンに届くのでしょうか,と始まった演奏曲は・・・「ショパン マズルカ作品24」 ポーランド民謡・・・

 

「心の眼」でショパンを見つめる伸行  青銅像をさわっている伸行さん映像。

その手は その像を どう感じ,どう描いているのだろうか。

 

「アンダンテ・スピアナートと 華麗なる大ボロネーズ変ホ長調作品22」演奏が続く中で・・・

アメリカ・サンタフェの砂浜の柔らかい小さい粒の砂を脚や足裏から払い落とす,そしてマネージャーへの珍しいチョッカイ,悪戯・・・自由奔放な生の躍動・・白い砂浜の広大な空間で,青空の下で 一本の草花,タンポポみたいな黄色い花が延びていた。見えない伸行さんは,体で押し倒したその花に気づく。手でさわる。その感触は,心の中にどう映るのだろうか。イメージなのか,何なのか,知る由もない。彼の思いは,ピアノの音で表される。

 

弾き終わると・・・観客からの 拍手が鳴りやまない・・・ステージから 姿を 幕裏に退けても,鳴りやまない。また登場。そして退場・・と,カーテンコールが4回も。コンクールでは異例なこと・・・。

演奏後の控室で お母さん,感動のあまり抱きつく。

二次予選の結果発表。残れるのは10人。名は結局呼ばれなかった。落選である。

12年間に及んだ 川上先生のレッスンはセミファイナルまで導いた,その成果が称えられ,半年後に一つの区切りを迎える・・・ショパンの心に伸行さんの音は響かなかったのだろうか。

「ショパンコンクールを終わって 一番いい時期だった・・途切れなくやってきた・・間髪を入れず本番やってきたので・・ふっと一息ついたらもう12年たってたんですね。川上先生は振り返っている。

帰国後伸行さんの練習量は猛烈に増えていきます,と。それは,今後の人生をピアニストとして生き抜いて見せるという自立への決意表明でもありました。

「17歳で騒がれて (優勝していたら)ゆっくり勉強する時間もなかったと思う。この4年間でいろんな面で成長できた・・逆にショパンで優勝していたらここまで成長はできていなかったかなと思う,とは別途本人の弁であった。

2007年春 大学に進学 上野学園大学 音楽学部 へ

自ら川上先生からの自立を宣言,横山幸雄同大学教授の下にひとり赴いた。

プロとして立つには今が正念場・・伸行さんの傍らには・いつも母親のいつ子さんがいた・・・しかしこのころから距離を置くようになる。

「親離れした方がイイかな,と思います」と本人が言えば

・・母親は 「独り立ちしてもらいますかね・・」 遠くから見守るように見ながら答えている。『一緒に行動したくないようですから・・・』と嗤う声が届いている。耳のイイ伸行さんは充分に分かっているハズ。母と子のやりとりの終りに近づいているようだ。二人三脚ゆえの栄華が見えます。母親の素晴らしいバトンタッチではないでしょうか。才能を引き出した母の誉れをたたえたい。

CDデビュー 自作のオリジナル5曲も含む。

そして初の全国ツアーも。2007年19才 大阪梅田

「ショパン 幻想曲ヘ短調作品49」(『雪の降る町を』のフレーズが聞える)

2008年19才 東京サントリーホール

運命の時がやってくる。 

2009年6月 20歳

「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」

「ラマニノフ ピアノ協奏曲第2番」で優勝   親子でつかんだ栄光でもある,と。