『バレエ 白鳥の湖』第二幕 12年前の舞台はテレビ向けだという。舞台は大きい。現在では作れない劇場だろう。演舞台は極めて広く,天井が高く,その前(観客席側)にはオーケストラが控え生演奏だ。指揮棒も見える瞬間さえある(別の映像では)観客は勿論映されない,テレビ向けだから全くの舞台を見せる。しかもズームアウトやズームインしてそれぞれの集団や組・対のダンスやひとりバレエも,観るものに感動を与えるべく総出でつくられている。音楽(クラシックと音響効果含め),舞踊,舞台の大道具・小道具,映像や飾りもの,舞台と分かたぬ動画には白鳥が数羽,泳いで横切る動きまで映す。舞台がそのまま屋外の湖となり,室内の演舞場になり,どこまでが現実(自然)で,どこまでが幻想の世界か見分けがつかない,見事な調和統制極致とはこのことだ。

 さて,テレビ向けとあるが,テレビでも見たことが無い,見ようという関心もなかったかも。橋田壽賀子さんが仰った,ある本の対談で。【『最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく』(上野千鶴子著2022年発行)】

「忙しくてテレビも見れなかった,と。高齢にもかかわらず最後はあのテレビ脚本『渡る世間は鬼ばかり』に絞って仕事をされるまで。テレビがオモシロい,と仰るのだ。私は,「エっ」と絶句してしまった。世間に引っぱりだこの超有名流行作家の橋田さん。80.90にしてテレビをエンジョイするなんて。私の戸籍上の母は既に93歳。簡易ベッドに横たわる生活で耳は遠く目も悪い。テレビがオモシロくないと言って長い。何が愉しみか。味覚だけは残っているようだ。最後は食べる愉しみだけが残るのかもしれない。いずれにしろテレビは面白くなくなるのだ。私は全く同感。今69にしてテレビはつまらなくなっている。あれば流しながらも「見て」いたが,それさえウザくなってきた。老人向けに作られている?たとえそうであっても心から楽しめるものではない。民間のコマーシャルは元気でイキガルうるさいばかり,そして“公共放送”といえども最近では大衆に同調してか,つまらなくなった。せいぜい教育番組がせめてもの慰みになる傾向がある。がそれでもアザトイ,良い子向けの欺まんや偽善が堅苦しい…年寄りの悲哀,「早く死ね!」の本音がある方がイイのだ・・・。もちろん背後には甘えがある。年寄りは身勝手だ。安楽死や尊厳死の裏事情には全く興味がない。データや社会制度云々などどうでもいい。身体がしみじみしないのだ。だれも聞いてくれない,言いづらい,言ってくれるな元気じゃないか,と上野さんさえ親友たちの対談相手にも遠慮ない。ホントは「腰や脚が痛くてねえ…おっくうなんです」それを聞いてくれる人が欲しいのです。松田道雄氏の著書時代とは背景が変った。しかしものの考え方は変っているだろうか。老人ホームがない。誰でも入れるような公的な施設がない。増やそうともしない行政。好みの特養ホームは値が張る。カネ次第。裕福な人だけが有料の素敵なマンションに入ることができる。特別老後介護看護付きホームで快適な所を見つけたと書く男性もいらした。何それと癪にさわった。大多数の老人はそれに与しない,一部の金持ちのみしか相手にしない行政。介護する側には手薄カネが回らずケア関係者は人手不足。cure(治療)する側,医者や製薬会社などカネになる方ばかりに目を向ける日本の医療制度。貧困者・下層身分は疎外されている。パターナリズムだという。上からの家父長的な温情主義。エライお医者さんの先生にモノ申せない。言えば何が分るか患者が・・と言わんばかりの世間なり。薬をもらって帰るだけ。まだイイ。貰える世帯は。介護保険を払っていても知らぬ人や利用しない人が多いと気づかされる。自分で元気に肉体作りに励み医者にかからないよう,心身健康に努める高齢者は多いのだ。その大切な公費税金を無駄に使ってはならないと医療費抑制に貢献している。黒柳徹子さんもそうだし,澤地久枝さんもそうだった。老人の生き方が問われる。今はそうは言わないのかも。「死に方」こそ大事なのだ。なぜなら高齢者が一番多いからだ。2025年は団塊世代が後期高齢者を迎えるという。合掌