「追悼の思いを捧げよう 偉大なるテツ・ナカムラに テツ・ナカムラのために」

 U2 来日公演 2019年12月5日・さいたまスーパーアリーナ。

心洗われる原点がある。 special worker スペシャルワーカーだと語気を強めるボーカリスト。♪一人のボクサーが立っている 打ちのめされても闘いつづける♪

「医師・中村哲 去年12月4日アフガニスタンの路上で銃撃され,亡くなった」 

大地に立つ中村哲を下から仰ぐようなアングルでカメラ映像が映る。その顔は笑っている。空は真っ青,顔は日焼けしていっそう真っ赤,夕陽をあびて。

乾燥した台地で 土を掘り返す大きなショベルカー(タイヤが前後に4本ずつある日立製大型ショベル)が働いている。長い用水路のための路づくり。長い大型クレーンを操作して土を掘り返しているのは小柄な中村哲本人だ。医者自ら建設機械を動かす。

≪ナレーションが入る≫

『旱魃(かんばつ)で苦しむ人々を救うため,用水路を建設。もたらされた水は大地を緑に変え,65万人の命を支える。』『その中村の活動を傍らで支える人々がいる。ワーカーと呼ばれるおよそ100人の日本の若者たち。<映像は水源の大河から引いた水の流れをせき止めて水路を造る関門づくり。そして中村の故郷で行なわれた葬儀が映され,まさに棺が担ぎ出されるところだ。『棺を担いだのは,若き日に中村を師として仰いだ,かつてのワーカーたちだ』

 

『悲しんでいたら中村先生 喜びはしないだろうな』とワーカーの一人が今振り返る。

「強烈な最後の生き様を見せてくださることで ここからは自分たちで歩みなさい」とおうせだろう,と。(もうひとりの元ワーカー)

映像でほか4人の青年や合同で働いている女性の姿も見える。

 

山岳地帯を馬で行く中村。1984年 (語りはオダギリジョー)パキスタン・アフガニスタン国境で 医療支援を始め やがて診療所を開設。現地に根を下ろした。2000年アフガニスタンを大干ばつが襲い,400万人が飢えに直面した。水が不足し衛生状況が悪化。感染症や皮膚炎がもとで命を落とす子供たちが後を絶たなかった。「衛生状態が良くない。あれを水で洗うだけでかなり抑えられる。水不足が影響している」と中村医師。

井戸は枯れあがっている。≪書籍で分るが,いままでの海外からの支援がサステナブルでなかったとわかる。井戸を造ったまま枯れた状態で使えない。放置されている枯れ井戸。地下水と井戸づくり,そして,メンテナンスの問題か≫

「水さえあれば,井戸さえあれば 命を救える・・・」と考える中村につき従う若者がいた。1人目は,蓮岡 修(28)

当時の映像から現在の映像に切り替わる。 大阪 蓮岡の今は父親の後を継ぎ,僧侶となっていた。若いときは人の死とは,仏教とは何かと思い悩んでいた。「最初の海外旅行がアフガニスタンだった 19のときでした。・・・戦争を見たいと,罰当たりにも思って・・・」 

目指したのは,戦場ジャーナリスト。一枚の写真で世界を変えたかった。

現地映像は砲弾を放つアフガン地上軍。砲弾の音が凄まじい。当時アフガニスタンは内戦のさなかにあった。繰り返される殺戮と押し寄せる難民。何もできず無力感。死体があって「…何枚か撮りましたけど,・・それがずっとトラウマになって・・。」失意の中で 中村に出会った蓮岡。ささやかな医療活動をつづける中村に対し,いきなり食って掛かった。「医療と言ったって,小さな病院で なんか非常に腹がたってねえ,なんのために こんことやってるんだ 見てきた難民キャンプと比べりゃ1日数十人しか救えないじゃないか。すると,先生はね,『わしゃ バカじゃけんね』とひとこと言って,・・・そうか・・・なるほどな・・・「へへ」と笑って納得する。“人は好きなようにやっていいんだよ 完璧じゃないかもしれないけど”。それに励まされたという。

「この人の下で人生をやり直そう。」日本で一年間会社勤めをした後,アフガニスタンに渡った。

旱魃(かんばつ)は更にひどくなっていた。診療所に運ばれてくる子どもたちは次々と命を落とす,その姿を目の当たりした。〈体温を測られる幼い子は目がうつろで,半ば開いた眼の瞳は定かでなかった。今にも息,絶えそうな様子である>

中村は蓮岡に命じた。「とにかく水を出せ きれいな水を出せ」「手段を選ぶな」

「銀行強盗以外はなんでもやって金を集めてくるからとにかく始めさせろ」・・「1年で600本の井戸を掘れ」

中村は蓮岡らワーカーたちに檄をとばした。

映像は,自ら,つるはしのようなものをふりあげ地面に井戸の輪を描いて刻み掘って行く蓮岡の姿。傍らに地元のひげを生やした若者が見ている。自分が見本を示す。井戸掘りの先導役だ。体格のいい背中は汗びっしょり。サンダルを履いた地元ワーカーが代わってシャベルでほじくり出す。サンダルもまた中村氏は自ら考案して作って提供している。日本のビーチサンダルは合わないと言って,すぐ捨ててしまう。合ったものを考案する。また,蓮岡さんは口ひげを生やしている。地元の成年になるべくまねている。朴訥で,あまりしゃべらない蓮岡氏は,行動で示すタイプか。体格がよく強そうに見えた。

 

この頃井戸を掘る活動に参加したもう一人の日本人ワーカーがいた。

目黒 丞〔すすむ〕(29)さん。口元にいつも笑みを絶やさない。すでにくちひげとあごひげを蓄えていた。郷に入っては郷に従え,だ。村の長老たちに囲まれて奮闘していた。この長老を中心とした協議制が現地種族・パシュトゥン人らにとって主要な議決機関なのだ。彼らを措いて。ことはうまく進まない。日本人が先の開拓者のスウェーデンやドイツ人らと違うところだろう。現地人の要望にできるだけ沿った,溶け込み方で支救援をしている。パキスタンやアフガニスタンなど南西アジア周辺の問題解決に期待される日本の役割がここに見えてくる。

 意思疎通手段の言語は,英語。何語がメインだろうか。パキスタンやアフガニスタン,ペルシャ語も話される。パキスタンの公用語を中村氏は使ったようだが,それはほんの一部の人の使う言葉にすぎない。多民族多言語。パシュトゥン人はパシュトゥン語を話す。

通訳して伝える地元民も必要だ。そこら中にいる人材でもないだろう。簡単ではない。難事業の上に言葉の壁・・・。指示は師匠同様,明確だ。「協力してくれない場合は井戸掘りを中止します」

「水をめぐってけんかしないでくださいね」(目黒さん)

もっとひげ面の地元成年?は,笑顔で,「わかりました」

目黒さんの今…東京。スーツ姿。コロナ禍の真っただ中か,マスクをして街路を歩く。すれ違う街の人々もマスク姿だ。2020年ころか。20年は経っていたろうか。サラリーマンをしている。出世を夢見るが二十のまま大きくなってしまったクズだと自己卑下する。大学中退後,金融関係の営業をしていた。目黒とアフガニスタンを結びつけたのは意外な出会いだったと。ブラックと言ってもいいくらいの会社で,実績残さないとやっていけない,・・・営業歩きに疲れて・・とある夜,自販機に。くたびれた,同じような営業マンが歩いてきて・・・おごってやって話しかけ仲良くなってそして私を誘ったのが蓮岡だった,と。「アフガニスタンでボランティアしないか」 短い観光旅行のつもりで日本を発った。パスボートを無くし,何もできない自分。ただ病院で働く人たちを見て自分の無力を知る。

中村との出会いの瞬間を鮮明に覚えている。

こわかった」「先生は,小柄な方なんですけど目がスゴイ。(画面は中村の顔,両目がズームアップで映される)「先生の目を見て話すのって,気力が要る。ウソが言えない,ウソが通じる人じゃない。・・・会ってすぐ土下座して一年居させてください,仕事させてください・・・。中村先生はただ笑って,「じゃ,がんばんなさい」。

 

蓮岡と目黒 二人は相棒として 井戸掘りに奔走することになる。

蓮岡は 朝から晩まで バイクで 村々を回った。そこで目にしたのは殺伐とした光景だった。水の奪い合い。大声を張り上げる少年にカメラに振り向く少女たち。成年男子もしかめっ面を見せる。井戸を掘ってほしいという年寄りたちが蓮岡を取り囲む。要望すべてを受け容れられず心を鬼にして対応せざるをえなかった,と。≪井戸掘りの過酷さか。水が足りない現状を見るだけだった?≫

その頃目黒は山あいの村をまわっていた。長老たちを説得し井戸を掘る場所をとりまとめるまで帰ってくるなと命じられていた。現場に行って,握手をして抱き合ってお茶を出されたらおいしそうに飲んで笑顔で帰ってこい。ただしヘラヘラはするな,指示はそれだけだったと,振り返る。

映像には長老たちと抱き合うシーンが。『あなたはもうパシュトゥーン人ですね もうどこにも行かないで下さいよ』-- 「作業がうまくいくといいですね 私も毎日来ますから」

(くみ上げる井戸水があふれ出る映像シーン,皆笑顔)

蓮岡と目黒が 現地の人たちと掘った井戸は目標の600本を超えた。子どもたちの笑顔が何よりだった。

 

2011年9月11日 アメリカ同時多発テロ 

テロリストをかくまったとしてアフガニスタンへの空爆がはじまった。

<犯人と見なされた首謀者の潜伏先は,実はアフガニスタンではなかった>

日本大使館から強い勧告が。やむなく隣のパキスタンへ避難。

「どこを攻撃した?」・・・「ジャララバード(カンダハル)」 テレビの映像を食い入るように見つめる女性スタッフ。画面にはCNN BREAKING NEWS  OSAMA BIN LADENの写真が,指名手配のように,映し出されている。「ただでさえ旱魃と飢えに苦しむアフガニスタンが空爆される。それをどうすることもできない」<中村哲氏はすぐ食料を買占めトラックで現地に輸送することを決行する。詳しく彼の書籍に記載されている>

テレビ画面を見ていたスタッフから「ちきしょう」声が漏れる。

日本から先生がもどって言う。『アメリカが爆弾を降らせるんだったら俺らが食糧を降らせる 何よりもこれをやるから全力を尽くしなさい』「雷に打たれたみたいで・・(絶句して,涙ぐむ)〈何を意味するか。なにをおいてもまずは被爆者,被災者の生命を救え,という中村哲氏の姿勢に感銘を受けるのだ> 食料と油を買い集めて,より安価で良質の品を呈する問屋に無我夢中で走り回って,ありったけの小麦や油を買い付けた。日本からの支援金のお蔭だ。時間がない。現地の人に混じって二人が食糧を運び出す,その映像は永久保存版の貴重品だろう。

 

「何もできない自分に 全力でとりくんでいいよ,と与えられたとき 寝食忘れて働けちゃうんですよね」 夜間,沢山の食料を載せた,大型トラックが出ていく。見送る中村医師とスタッフ。

「クズみたいな若造(自分)が結果的に成長できた・・成長させるためにあの事業があったわけではない・・(冷静に分析しようと言葉を選んでいる) 「し・ご・と」でした,と。成長させていただいて,いろんなものを与えていただいた・・・。」

<自分一人だけに終わらせないでほしい,と痛感する。哲さんの声を広げる務めがありはしないだろうか>

他方蓮岡さん,アフガン後に,語る。・・「灰汁(あく)を取ってもらったような気がする。人生の肯定を,みせつけられた」と。

 

中村はどんな気持ちで若者たちを迎えたのだろうか。

「現地に赴いたワーカーたちは様々な動機でやってきました。日本で満たされず『青い鳥』を求めて来る者,日本の社会になじめない者,半ば興味本位としか思えない者,「国際援助」の美名に惹かれる者,本当に様々でした≪日本という国の問題か?初めは自分も医療支援で派遣されてきた身分。しかし,アフガニスタンでの原風景に接して,変ったのでは?初めから偉大な使命を持って赴任してきたわけではない。医者としての職分を超えて,生業を超えて生命の水を導くために生命を懸けた,中村哲は現代のヒーロー。司馬遼太郎氏だったら,そう描いたと思います。

「でも,私は動機を問わないことにしていました。また,いわゆる『使える,使えない』という能力そのものだけを評価することもありませんでした。その人が,いかに誠実に任務と関わり,自分の先入観を克服して いかに虚心になりうるか,日本人としてのまごころと心意気,素朴な人情を買ったのです。【中村哲著『丸腰のボランティア』より】」

 

「必死の井戸掘りをして3年。大地の渇きは むしろひどくなるばかりだった。人々は飢餓に苦しんでいた。・・・中村は,この日ワーカーたちを集めた。みずから強い口調で 決断を下した。」

英語で言う。『毎日数百人の子どもが命を落としています。さらに多くの人が水不足のために病気になっているのです。私たちの目的はただ一つ 自分たちで食べていけるようにすること。この用水路建設にアフガニスタンの未来がかかっている。』  

 砂漠の大地に 総延長14キロの用水路を建設し緑をよみがえらせようとする『緑の大地計画』 

岩山が発破され,住民が参集され大地を掘り水路を造る。石をどける人々の手・手・手。人力作戦。老いも若きもそれぞれ道具をもっている。鍬,鋤,鉄斧・・・くさびを打って岩を砕く。

 2003年5月誰もが無謀な挑戦だと危ぶんだ計画を中村は実行に移す。現地の農民600人が作業に。

そこに日本から来たワーカーがいた。橋本康範(30)宮城県に暮らしていた。現在は農業専門の雑誌を発行する出版団体に勤めている。取材や営業で農家をまわるのが仕事。(「現代農業」を手にしている。)橋本もかつては挫折した若者だった。<なぜだろうか。“成功した”若者が登場しない。> いったん,教職(小学校)に就いたが,馴染めず2年で辞めてしまった。

すごく矛盾を感じたりですね。学校を飛び出そうと思って辞めました。」

なんて,自分に正直に生きる人だろう! ある同僚を思い出した。彼は赴任して,2,3年もしないうちに合格して赴任した初めての学校を辞めて青年海外協力隊に入りアフリカに赴いた,が,内戦で政情不安のためすぐ日本に引き返してきた,まっすぐな若者だった。日本の学校や社会の閉塞感・・。テキトーに自分をゴマカシ・・欺瞞・偽善を貫く・・昇給出世を願って勝ち組をめざすエゴイスト集団マジョリティ> 

「アフガニスタンのような,便利でない国に行き,自分が鍛えられる・・」とふりかえる。

日本社会からはずれた 弱い自分を変えたいという思い・・・

日本のエスタブリシュメントを是とした上での思考である・・・ほんとにそうだろうか。疑問を持たないのだろうか。

せいぜい,二十代の若者たち。広い意味での「経験」がない。世の中を知らないと自分を卑下する。無垢の精神状態を未熟だと決めつけている。優しい青年たち。この貴重な経験をその一人の人だけにとじ込ませておいてしまっていいのだろうか。

中村哲氏は弱者か?犠牲者か?マイノリティでも,敗者だろうか。師を受け継いだ彼らこそ胸をはって時代を造っていただきたい。

「そんな橋本に思いがけないことが待っていた」・・・中村から用水路に水門を建設する責任者に抜擢されたのだ。

 習うより慣れよ。用水路の要。映像は鉄筋コンクリートの水門づくりの現場。鉄柱や型板や骨組みがむき出し。両岸の石積みは日本式,例の福岡柳川の石積みだろう。要所要所に日本伝統の技が生かされている。橋本が現地語?で,指示を出している。

「コンクリートを流してください・・・」・・水門作り・・土木は素人。「素人ばかりで 焦りと苛立ちが募る」と。

コンクリートの木枠がゆがみ,そして漏れ出す。失敗の連続だった。

中村は言う,「失敗を恐れるな,思うままにやって見ろ」。

追い詰められた橋本を救ったのは一緒に働くアフガニスタンの人々だった。

「あれだけ大変な所,食べ物もないですし,着るものもないし・・・しかしユーモラスで笑顔が絶えない・・子どもが病気とか,いつどうなるかわからないといった不安があったはずなのに そういうのを感じさせない 強さ・・という音声とともに文章が紹介される・・・・

「彼らから本当の幸せとは何かを教えられた ここは人が人として生きられる大地だ」  水門は無事完成した。

2004年 用水路に水を初めて流し入れる通水の日。茶色い水が干からびた用水路の中を染み渡るように流れ出す。水が乾いた大地を少しずつうるおしていく。その水先に中村哲氏が立っている。「おーい,皆お出で」

みんなを水路の中に呼び寄せる。喜びを共に分かち合う?

橋本は地元の農業の復興にも携わった。

トウモロコシ,ブドウ,茶,サツマイモ・・

広大な大地は 緑によみがえり,いまでは65万人が食べていけるようになった。中村先生は,常々言っていた,『最後は農業だから』と。

「これからは自分の心の命ずるままに生きよう」と。農家を支える仕事についている。

『柳緑花紅』3年間ご苦労様でした。中村から贈られた記念のカラフルなAFGHANISUTAN /AFGアフガンの文字入りシャツに書かれた文字熟語。残ったスタッフからの寄せ書きも見えた。

『柳は緑 花は紅』“あるがままに”という意味らしい,と。

 

若い方にひと言。君たちは,悪事でもしない限り,だいたいやり替えがきく。恐れずに歩き回って,正しいと思うことを利害にとらわれずに貫くことです」(中村哲著『医者よ,信念はいらない まず命を救え!』より)「最近の日本は,『若気の至り』を許さぬ気風で,若者たちが委縮しているように感ぜられるからです。こうして任務を終えて帰国しても,現地で学んだ『技術』は日本で役立ちません。しかし,「人にとって何か大切なもの」を心のどこかにとどめる,そのことが何よりもかえがえのない収穫だと思います。」(同,『丸腰のボランティア』より)

 

大阪枚片市 大越 猛(たける)(45)アフガン体験は,人生を180度変えた。訪問診療を専門とする町医者。大越は大学院で国際法を学び,国際公務員を目指していた。国連機関への就職を考えがあったと,」下心があったと隠さない。ところが当時28歳の大越さんは英語ができるとして,与えられた仕事は会計などの事務仕事だった。現場で働く仲間の炊事も担っていた。

「現場に立てない。現場を見れない,ことがつらかった。」≪このシーンで思い出す。33:10のカットを静止させた。食卓に坐って給仕を受ける中村氏と飲み物を注ぐ大越さん。彼の不満を知ってか知らずか,師匠は黙って観念したかのようにさびしげに見える。自分に忠実に生きる姿はまるでイエス・キリストか。疲れ切った感さえある。生かされ,生きている?姿か。使命に生きる姿に歓喜はない。そこに荘厳さ,神々しさを感じさせる。静止画として映る瞬間は「色即是空」の絵であった。

目に見える氏の顔は常に沈んでいる。現実を知る目はいつも悲しげだ。

矛盾に満ちた現実社会,正直笑顔になれない。カメラの前で素顔を見せる。決して媚びることも,肩ひじ張ることもない。至って冷静。いや沈静過ぎるくらいだ。大越さん,帰国したいと申し出ると,厳しい口調でを叱られたと,大越さん。

「君,昔で言ったら敵前逃亡ですぞ」 この表現は日露戦争時代を思わせる昔気質だが・・・しかしそれは時代の産物。意図を汲むべきだろう。

『カナル(用水路)が一番大事な時期だからせめて3月まで居りなさい』

※カナル CANAL 運河。遠く大河から水を引いてくる運河は用水路。日本のスケールではない。沙漠の大地に水を引く前代未聞の事業。達成できるか土壇場なのだ。私情を挟む余裕はない。喝を入れる中村氏の心情を察しよう。一人の人間を超えている。有無を言わさず言われたことがむしろ嬉しかったという。大学院まで出た秀才の弁である。「そこまで引き下ろしてくれた嬉しさ・・というのかな・・」と心境を述べている。

仕事を任されるようになり,全力で働いた。キャリアアップのためにここに来た考えの浅さが恥ずかしかった。人生の目標が大きく変わっていくのを感じた。人の命を救う,そのために 何でもする 実践しておられた中村先生こそが 医者なんだと,思っていた,と。帰国後猛勉強した大越は35歳で医者になった。訪問先のお年寄りは,がんや難病のお年寄り。白衣を着ないのが大越流だ。患者を緊張させないためだという。」≪ココも以前投稿紹介済みだろうか≫

大越の診療所の電話は鳴りやまない。新型コロナで家族の面会もままならず自宅で看取りする人が増えている。命に寄り添って生きる,これも一つの在り方だ。やはり再び感動しているシーンだ。

でもこれでイイのか。日本社会,あれから変わっているだろうか。メディアも 映像に出てくる人物も素晴らしいのに…大枠は変わっていない・・・

今日の 神戸大学生による,旅館での破廉恥行為が世間を騒がせている。個人的には,『若気の至り』を許す心境にはならない。・・・この辛抱強さは何なのだろうか? 

 

中村先生のことば・・「一隅を照らす」を挙げた。言わんとすることは割愛します。恐らくもらさず掲げたことでしょう。奈良仏教,弘法大師に並び称される伝教大師・天台宗開祖の「最澄」の教えですね。

たしかに素敵な言葉。だれでも実践できるようで難しいかもしれない。

しかし,今,想う。中村哲氏がやったことと,彼がすすめる教えは,似て非なるものに見えてくる。「一隅を照らす」行為は,個人の域に収まる。が氏の教え(実践行動)は個人の領域に収まらない,壮大な広がりがある,もっと壮大なものに見えてくる。

2011年3月11日東日本大震災。橋本さんは,宮城の農家を支援している。

 

アフガニスタンが「表」から消えて,隠れてしまうように思われる。

蓮岡さんは絵本を作っていた。聴講者にアピールしている。闘いは続いているという。

目黒さんは,会社の中で苦闘している。中村先生の顔が浮かぶという。

皆体制の中でモガイテいるようにみえる。・・・・合掌,ありがとう。