日曜美術館のあと,放送されていた・・・神戸美術館での収録風景

ヤマザキマリさんの,変らない風情姿に私は歓喜している。平和があるからこそ風呂がある。 江戸の風呂。ローマ人が来て入っても違和感なし,と。風呂は世界共通らしい。

 さて私は銭湯を思い出す。若い頃,ふろに入った,そして入れなかったかもしれない時代を。

 高校を卒業した翌年になる。昭和49年,1979年。19才。新聞配達,大学受験生。

住み込み。住居は新聞専売所の持つ居室。新聞専売所すぐ近くの歩道(幹線道路脇)の地下にあった。2畳くらい。夏の台風シーズンには雨水が入ってきた。寝るだけの場所。そこで受験勉強をしていた。さて風呂は?ナイ。だから近くの銭湯に通ったはず。だが,全く記憶にない。フシギである。杉並区永福町。いまでは幹線道路の何度もラジオや情報で耳にする場所。市街の真っ只中。昔も相当な人々が密集する地域であった。銭湯は身近に在ったはず。身近すぎて気づかない,そんな存在。生活の一部にこっそりひそんでいる。それ以上のモノでないのかも。

 

永福町の銭湯は記憶にない。存在はしていたはず。まさか風呂に入らずに過ごせない。専売所には風呂はあったかなあ。新聞のチラシを前の晩のうちにチラシだけの束につくっておく。それから配達(夕刊の)と夕飯。その後は自室に帰って自由。風呂はどうだったろうか。一区から5区または8区辺りまであったろうか。8人ほどの配達員を一軒の専売所で賄えるか?疑問。きっと近場に銭湯はあったはず。そして一軒ではないだろう。ちょっと遠出すれば別の銭湯へも。それくらい銭湯は沢山在った。『神田川』は好きな曲目だった。当時を思い出す名曲だ。19才から25歳くらいまで,大都会・東京は銭湯のイメージと共にある。20から24歳までの大学時代は牛乳店での賄。風呂もいただいた。部屋は相変わらずの実質二畳。一畳が高くなっていて小さい窓を開けると階下の区道?が見え向かいには大日本インキの工場の敷地が見えた。吾々従業員は二階に住み込みして,賄と風呂をいただいた。板橋区での都会に似ない場所で。すぐ川を越えると埼玉県戸田市であった。4年後早稲田の喜久井町に移り住む。都内に就職し最初の企業会社通勤に近くの新宿区に宿を得た。その当時も最も安いアパートだった。トイレキッチンが共同の木造三畳。窓が一つ。風呂なし。そこから近くの銭湯まで通ったのが新鮮に思い出される。寒い中,夜中に向かう小さな温かい時間帯。♪小さい石鹸,コトコト鳴った♪の世界観はなかったが。異性も全く縁もなく・・・。夢にだけ見る男,24~25歳にもなる。哀れな何か僕かな。民間は結局続かない。その年,暮れに辞めて公僕目指して新たなる試練に向かう。感謝合掌