恵那市の戦国時代の歴史探訪
30年以上ぶり?に恵那市上矢作町の「遠山塚」を訪ねてきました。 遠山 景行(とおやま かげゆき)は、戦国時代の武将。明知遠山氏当主。美濃国恵那郡明知城主。 元亀元年(1570年)武田信玄は本願寺と結び、足利義昭に忠義を誓い、信長打倒のために西上を開始した(西上作戦)。 東美濃においては、その11月武田の将の秋山虎繁が徳川氏の本拠地である三河国へ攻め込もうとして美濃国恵那郡の上村に侵入し、上村合戦が勃発した。 総大将の景行は、備えを進めて戦おうとしたが、先駆の秋山勢の500人が景行の背後に出て奇襲を行い、前後から挟撃した。景行は奮戦したものの遠山氏は一族・郎党が悉く敗れ去ったので、5~6名の兵とともに血路を開いて落ち、漆原の山中にて自刃した。 最期に槍を地面に突き刺したところ清水が湧き出たので、その水を飲んだという一杯清水という湧水跡があり、傍らに遠山塚と彫られた大きな石碑がある。 明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』(鷹見弥之右衛門著)によると、美濃出身で織田信長の重臣となった明智光秀の叔父である明智光安は景行の事であるとしている。その説に従うと景行は明智光継の三男として生まれ、明知遠山氏を継いだ事となる。また永井寛が『明智光秀』でその説を補強している。 スマホのカメラなので、写真が不鮮明なのはご容赦ください。