先日、山南忌を含む京都旅から帰宅いたしました。
第18回山南忌でお会いした皆さま、ありがとうございました
当日の朝に新幹線で京都へ。
富士山が綺麗に見えました
まずは光縁寺でお参りをし、旧前川邸にて受付とご焼香。
すぐに壬生寺へ移動して会館下で著書の販売を。
共著の権東品氏は、だんだら羽織を着て
さらに現霊山歴史館蔵の土方歳三愛刀「大和守源秀國」押形(コピー)を作成
それもおまけに付けて、売り子さんをしてくださいました
記念行事は、昨年9月に急逝されました あさくら先生
山南さんはじめ新選組隊士たちのご冥福を祈っての黙祷からのスタート。
いつもは講演が初めにあったと思うのですが、今年は中ほどに。
ん~、すごい緊張感が高まります
※ 写真を送って下さいました皆々さま、ありがとうございました。
講演内容や当日のことなどは、また追々にblogアップしていきたいと思いますが
約60分、様々な資料提示しながらしっかりお話させて頂きました。
そして一昨日夕方、京都新聞IDの記事になっておりました。
こちらは有料記事ですが、翌日朝刊に掲載されました
新聞画像は控えますが、私の講演について簡潔にまとめられた部分だけ抜粋します。
【 汐海さんは「山南敬助、最期の。。。」と題し、切腹の背景を考察した。その死は隊の規則に背いた「脱走」が理由とされるが、多くの文献をひもとくと、この記述はほぼ見当たらず、近現代の小説などで広まった可能性を指摘。当時の政治潮流・攘夷との向き合い方を巡る局長近藤勇らとの路線対立があり、「(死ぬことでいさめようとした)『諌死』だったのではないか」との見方を示した 】
とありました。
結論から言ってしまえばそういうことなのですが、色々と補足したい
その中で一番強調したいことは、その対立からの諫言は
山南が療養のために屯所を離れていたからであり
その為に、当時の政治情勢の変化や近藤の方向転換への理解が追い付かなかったこと
ではないかという理由があったからだと思うのです。
ずっと第一線で近藤の側にいたならば、山南もまた近藤を支える存在だった…
私はそう思う。
もちろん記事を書いて下さった記者さんとは、講演後や懇親会の席でもお話し
本当に短い文中で、私の講演の核心のことを伝えて下さって、感謝いたします
また機会があれば、様々なことをお話したいですね
記念行事終了後、会場後方で再び著書の販売を。
講演を聴いて下さった方々が、お声をかけて下さってのご購入。
久しぶりにお目にかかれた方、感激したと涙ぐんでいた方
本を読んでもっと深く知りたいと、おっしゃって下さった方…
とても嬉しかったです
通販もしておりますので、ご興味ございます方はご連絡下さいませ。
あ、「新選組史再考 講座」の今月オンラインは明日ですよ~
24日(日)も行いますので、こちらもよろしくお願いいたします
新選組史 再考 講座
今月のテーマ
※ ご希望の方はご連絡下さいませ。
令和6年弥生15日 汐海 珠里