間が空いてしまって申し訳ありません。

人見さんと勇さん」のラスト記事です。

 ☆前回 下矢印

 

 

人見寧履歴書」によれば、大久保剛(近藤勇)率いる「鎮撫隊」の敗走時、人見は近藤と土方に出合ったとのこと。

その時に 再挙を計り会稽の恥を雪ぐ」 という話をする。

 

近藤自身は、この甲府への「鎮撫隊」の進軍は、どう捉えていたのだろう。

共著「新選組史再考と両雄刀剣談」の中で私は、甲州行きのことをこう書いている。

 

 

さて近藤自身の当初の心づもりは、いったいどうだったのであろう。

大久保一翁からの指示通りの、「脱走兵鎮撫」であったのか。

それとも「新政府軍進軍阻止」の為に、戦う事も厭わないつもりだったのか。

 

 

これは今現在も揺れている。

永倉はその著書の中で、「表面は甲州鎮撫」、けれど実は新政府軍に「反抗しよう」という考えだったと記す。

本当にそうだったのか?

近藤自身は、「戦ってはいけない」ことは充分に承知だったはずだ。

そう約束して行ったはずだ。

だから、大久保一翁は彼らを送り出した、はず。

本当にこの約束は「表向き」なのか?

近藤が、大久保や勝を騙して行ったのか?

逆に大久保たちは、本当にその言葉を信じていた?のか?本当に?

大砲などを用意して赴いた甲府は、やはり新政府軍に立ち向かう気でいたのだろうか。

 

どちらにせよ結果的には、「やはり」というか「残念ながら」というか、戦いになってしまった。

なってしまったからには、「勝つ」つもりだったよね?

敗走時に人見に 「自重して再挙を計り会稽の恥を雪く可し」 と言われた近藤は、それに頷いたのだろうか?

それとも黙って首を横に振ったのだろうか。

 

思い出したエピソードがひとつあった。

甲州から敗走後に江戸で勝海舟に会った時、近藤と土方は再戦したいと語ったというものだ。

少し長くなりますが、引用しますね。

 

 

 伏見の変一敗してみな東帰す。近藤、土方その徒を率い帰り、再戦を乞い大いにその徒を集む。官兵東下の頃、両士説きて云う、先鋒に説く者その人あり。甲府に出でて我が家の趣旨をこの手に説かん、必ず恭順の趣意を守り、敢て暴動するなかるべし、と。この時これらに使いする者みな恐怖を懐き、敢て身を致すその人に乏しきを以て、終に官吏を瞞着し、その乞に応ず。ここにおいて彼の輩、銃を包み弾を隠し、 陽に恭順を表し陰に一戦を含み、去りて甲府に行く。先鋒土州の兵に対す。その説聞かれず一戦、敗走ふたたび 城に来りて説きて云う、官兵暴房、理非を弁えず彼我れを討つ、諸君恭順せんと欲するも、すでにその事今日破 れたり、よろしく諸兵を励まし大いに一戦し、官兵をして足を我が府下に入れしむるなかれ、と激論してやまず。
諸有司、如何ともする能わず。予出でて答えて曰く、汝ら、上官の令を守らず、官兵聞かざるが如きあらば、よろしく帰り来り、その転(顛)末を告ぐべきなり、しかるを恣に戦い、敗走して帰る、これ豈臣使するの道ならん、実に私闘に過ぎざるなり、汝の輩、再戦せんとせば自らなせよ、何ぞ官吏に迫るかくの如くなる、と。
 彼云う、諸吏みな柔弱にして大事成るべからず、この輩を頼み、苟且時日をすごし、後、何とか成らんや、ただその勢の消滅せざるを測り、志士を集めてこれを鼓舞し、雌雄を一戦試みん、もし敗して成すべからざるに至らば、ただ死せんのみ、暴戻の官兵、道理を以て談ずべからず、かつ君なお悟らず空しく彼が暴戻に屈下し、終に縛せられて何の益がある、乞う、わが謀に従えよ と。意気はなはだ剛なり。その説の行われざるを以て、去りて四方に走り、かつ戦いかつ蟄す。
 勇、流山に潜伏せし時、官兵に縛せられ板橋に斬らる。 歳三、去りて箱館に行き、また弾に中って死す。

   (「解難禄」)
 

 

最初このエピソードを知った時、回想録によくあるように多少の誇張や創作も含まれているのだろうと思った。

特に、「あの」勝海舟だ。

 (勝さん、嫌いではないです。念の為)

「戦ってはいけない」と言い含められて(もしくは「戦わない」と約束して)行った甲府で敗戦し戻った時に、さらになお戦いたいと言ったのだろうか?と。

 

同様に「人見寧履歴書」も回想録であるから、実際に近藤が再戦を願ったのかどうか、わからない。

再挙を計り」と言ったのは、その後脱走して箱館まで行った人見勝太郎なのだから。

 

でも、この二つのエピソードを合せた時

やはり元々は主戦派であった近藤は、薩長に一泡吹かせたいという気持ちが強かったのではないのか

と思った。

 

けれどその後、五兵衛新田に向った際には、もう近藤には戦う意思はなかったと私は思う。

そうでなければ旧幕府陸軍隊として赴くことはできないし

「今昔備忘記」に書かれたように佐藤彦五郎たちの助命嘆願をしたのなら、二度と戦うことはできないだろう。

だからこそ流山で新政府軍に囲まれた時、出頭に応じた。

敗走して頭に上った血が、勝や大久保の怒りで一気に下りたのか。

慶喜の「首を差し出せ」の言葉を聞いて、目が覚めたのか。

もしかしたら徳川が自分を見捨てたことを知った時に、自分の「役目」を自覚したのかもしれない。

あるいは「ああ、そうだったのか」と、甲府行きを再認識したのかもしれない。

色々な意味で…

近藤の本心はわからないし、あくまでも私の考え。

 

箱館で人見は、土方と共に近藤のことを語ったのであろうか。

明治に生きた人見は、この「履歴書」を書く時に近藤の最期をどう感じたのだろう。

土方の戦死を、どう受け止めたのだろう。

そんなことをふと、先日の画の中の人見さんに、尋ねてみたくなりました。

 

 

引用した勝海舟の「解難録」には、最後の一文がこう記されています。

 

 

ともに 一奇士なり。

 

 

この一文だけは、わりと有名ですよね。

勝はどんな気持ちで近藤と土方を、「一奇士」と表現したのだろう。

 

長々とお付き合い、ありがとうございました お願い

 

 

   2021年4月20日  汐海 珠里