一昨日の続きです
さて、いよいよ「袖章」。
☝ これね。
重複になりますが、動画の解説を再び。
・新選組のだんだら羽織は短期間しか着ていなかった。
・池田屋事件以降、有名になっちゃったから目立つ羽織を着ていると、すぐ新選組ってわかっちゃうから取締る志士たちが逃げちゃう。
・よって「黒着物」「黒袴」という、目立たない恰好して市中巡察した。
・けれど敵味方がわからなくなるから、この「袖章」を文字通り「袖口」に付けて、証とした。
新選組の「袖章」。
これ、上に竹ひごみたいなのと紐が付いてるところから
槍とか鉄砲とかの武器に、印としてつけていたんじゃないのかな
と思わないでもない。
でも実際に他藩などでも同じようなものを「袖に」付けていたというので、やっぱり新選組のもそうなのかな。
ただね…
動画の説明だと
・市中巡邏の時に付けていた。
・文字通り「袖口」に付けていた。
ということになる。
ん~
昨日も書いたけど、戦いに備えてのことでもない限り、「新選組です!」みたいなの要る?
説明では
「全盛期は200名を超す隊士がありましたので、誰が敵で誰が味方か分からなくなってしまうため」
と言っていましたが。
これはそれこそ戦さなど団体戦になった時に、敵味方の区別が必要で付けるようになったんじゃない?
他藩などとの連合軍になるわけだし。
と、思うのですが。
私ね、あの袖章は、はじめは対長州戦に備えて作ったんじゃないかと思うのですよ。
結果的には新選組は幕長戦争には参加しなかったけれど、やる気満々だったじゃないですか。
行軍録とかも作っちゃって。
そして実際に使用したのは、鳥羽伏見の戦い以降。
もちろん隊士に配られたでしょうし、予備もそれなりの枚数を持っていったと思う。
途中でまた追加で作成したかもしれないしね。
でも島田さんの遺品に多くあったのは、京都を離れる際に妻の実家あたりに少し置いていったのではないのかな。
借用書とか他のものもまとめて。
慶応3年12月20日、新選組の荷が置いてあったという家が出火して、放火?じゃないか、みたいな噂もあったでしょ?(「慶応雑聞録」より)
その中にもあったかもしれないですね。
そして付けていたのは「文字通り袖口」って、「袖口」
肩より少し下、二の腕あたりじゃなく??
しかも「黒着物」の袖口??
浅葱の羽織であれば、白の山形(だんだら)の場所っていう事ですよね?
いや、違うんじゃないのかな…
私も気になって、当時の諸隊の服装とかも調べたけど、やっぱり二の腕あたりだよね?
揚げ足をとるつもりはま~ったくないのですが
この動画、割と公的なところのだし、視聴した方もいらっしゃるのではないかと思います。
テレビ番組もそうなんだけど、一般的に影響力が大きいから
見た人たちが、素直にそのまま信じてしまうと思うのです。
「だと思われます」
「当方の見解では…です」
ならまだいいんだけど、断定されてしまうと
つい
その根拠は?
何が典拠?
となってしまうのですよね
そしてだいたいその提示がされていない…
「伝える」って難しいし
しかも「新選組」って、それでなくともイメージ先行型。
「あ~、そうなんだぁ」
で受け入れられてしまう部分が、すっごく大きい。
いや、私自身も他の時代はよく知らないから、幕末以外のことを歴史番組とかで放映されると、素直に受け入れちゃうところもあるし。
まぁそれでもかなり疑り深くはなっていますけれど。
そんなこんなで、ふとした動画を見たことからの感想でした。
池田屋事件(元治元年六月)以降、新選組は黒ずくめの着物の袖口に「誠」の袖章を付け、市中見廻りしてた。
な~んていうのが「新選組通」っぽく語られたら嫌だなぁと
そう思いました。
令和2年杪秋(びょうしゅう)20日 汐海 珠里