日帰りで逢いに行こう
と決心したものの、岐阜県博物館は結構遠い
割と交通の便が悪いのですよね~。
まず新幹線で 「名古屋」 まで
そこから 「美濃太田」へ
途中駅でドアが開いた瞬間、何気なく見えたのがこの駅名。
「鵜沼だ 」
と思わず声に出してしまった
皆さま覚えていらっしゃるでしょうか。
一昨年11月16日の東京新聞夕刊に
「近藤の失態」 的に書かれた記事のことを・・・
上の図は、その頃の自分の講座で解説の為に作成したパワーポイントの画像。
で、その記事内容をまとめたのが
いやいや、これね。
「可能性がある」というぼかした言い方ですが、「近藤勇」の個人名を出すのなら、もうちょっとちゃんと調べてからにしてくれないかなぁ
だいたい何故 「本庄篝火事件」 が、実際にあった事件扱い
この本庄での事件は、かなり疑わしい事件なのです。
(この件について、ちょっと別立て記事にしたい )
そして本当に「支払い」が不足していたのか
という事。
というのは、当時の「支払い方」ってちょっと複雑なところもあって
具体例で言いますと、私も勘違いしていた(その方が多いと思います)のですが、品川宿「釜屋」での支払い。
慶応3年10月21日に、歳様と源さんが新入隊士たちを連れて京都に戻る際、昼食をとってその支払いをした記録がありましたよね。
この「支払い額」は、実際に彼らが支払った額(昼食の金額)ではなかったのです
これは記事にしてあるので、興味のございます方は こちら☆
まぁ実際にこの「桜井家文書」を読んでいませんし
「鵜沼宿」でのシステムがどうなっていたのかよくわかりません
ので、新聞に書かれるように支払い人数分が不足していたのかもしれないですけれどもね。
けど、「宿場内でのやりとり不明」のまま、「近藤の不手際」っぽい発言は、やっぱりなぁ と思ったのです。
その後、12月1日付けの読売新聞では、もう少しニュアンスが柔らかくなっていましたけれどもね
記事の要約
でも、ここでも 「本庄篝火事件」 のことが書かれてる
ちゃんと 「逸話」 と書かれ 篝火のことには触れずに 「謝罪した」 のみになってはおりますが。
という事で、この 「大篝火事件」 をきちんと纏めておきますね。
「150年前のこの日の記事」 では、なにしろブログ書き始めた頃で、かなり大雑把にしか書いていないので
よって、明日の記事は 「番外編」 です
令和2年暮春(ぼしゅん)17日 汐海 珠里