昨日の続きです。
では、その「七里村騒動」とは実際はどんな事だったのか。
野口さんが切腹する前日の文久3年12月27日付けの勇さんの書状があります。
一筆申入侯 然は其方支配下七里村百姓甚右衛門 甚左衛門と 同村年寄久左衛門 勘左衛門 久右衛門と 何カ差縺候次第も有之候ニ付、 此方役所江願出候処 素々支配筋違之儀ニ付 一向取上不致候処 夫より三好織江 大舛屋久右衛門 并水戸殿家来両人ニ而 壬生詰合浪士と疑名いたし 其地江出役致 彼是村方掻動被致候由 依之甚右衛門妻 甚左衛門 村方住居相成兼候趣 願出候間 右之趣意貴所可然様 双方村方難儀無之様 諸事執計可被申様申越侯 早々 以上
松平肥後守御預り
新撰組 局長 近藤 勇
十二月廿七日
中羽田村 庄屋代官
小澤文次郎様
前文趣意披見之上者 請書差越可申候 以上
(小澤家文書)
中羽田村は近江国蒲生郡で、その地の庄屋代官に宛てた手紙です。
内容を要約すると、上記文面の人たちが何か騒動があったと役所に訴えていたけれど、もともとの支配筋が違うと取り上げなかった。
しかしその後 「三好織江・大枡屋久左衛門并水戸殿家来両人」が 「壬生詰合浪士と偽名」して問題を起こしたからなんとかしてくれと、「甚右衛門妻」と「甚右衛門」が、新選組に窮状を訴えてきたというのです。
まぁ実際に新選組に訴えられたとしても困るので、この地を支配している庄屋代官の小沢さんに騒動の仲介依頼したわけです。
ここの「壬生詰合浪士」というのが、すなわち新選組の事。
つまり、「新選組隊士」と偽った「水戸浪士」が問題を起こしているという事になります
しかもブログ記事にも書いたように、幕府の布告としてこの頃に「水戸殿浪人或者新徴組」と偽って悪事を働く者がいるから、怪しい浪人は召捕り、抵抗したら殺害も可、という制札も出されていました。
(中島町文書より)
実際にこれが野口さんと関連性があるのかどうかは不明。
ただ「水戸浪士」が絡むことであった為、芹沢派である野口さんの切腹(粛清?)に絡めてみたのです。
なので野口さんが七里村へ出張ったという記録はありません。
そこに安藤さんを登場させたのも、昨日書いたように彼が介錯人であったとの「新選組遺聞」からのことです。
実はこの騒動は野口さんの切腹で終わったわけではなく、翌月にまた勇さんは小沢さんに書状を書くことになります。
続きは明日に m(__)m
令和2年建卯月(けんぼうげつ)5日 汐海 珠里