お久しぶりです キョロキョロ

なんかこんなにブログ書かなかったのは、開始当時くらい?

6年以上ほぼ毎日だったので、なんとなく何かを忘れたような感覚でした アセアセ

昨夜、箱館から無事帰宅いたしました。

めっちゃ泣いて、めっちゃ歩いて、めっちゃ楽しくて、そして感謝の4日間でした。

その時のお話は、またゆっくりと ウインク

 

さて、さっそくの本題は幕末。

まだ箱館戦争は、終わってはいません。

 

150年前の本日は、明治2年5月14日

この日、弁天台場がついに降伏を決意しました。

 

 

同十四日彰義隊一人一連隊一人手負の者小舟に乗台場裏手え回り、病院掛り小野高松両人よりの書状持来。於是一同評決之上返書差遣す。

  (中島登覚書)

 

十四日 下り風天気よし。

今日は台場小筒も休しみ。同所より人足壱人逃出るを召捕御吟味有之処、官軍へ書翰差出し。開き見れば台場より降伏の書也。

   (新開調記)

 

十四日七ッ時、台場より相馬主計早馬にて使者之目印を立 弁天台場へ出るその趣法阿るものか官軍之方には指壱本もさし不申 

(中略)五稜郭へ落着して賊魁榎本釜次郎・松平太郎始打寄、癒
台場降参之事申出候

   (箱館軍記)

 

 

土方戦死の11日、書いていないことがあります。

それは箱館病院と、分院になっていた高龍寺での事。

詳細は、今は書くことは控えます。

(いずれひとつのテーマとして書くことがあるかもしれません)

ただ、武装解除していた箱館病院は謹慎を条件に、新政府軍保護下におかれました。

一方高龍寺では弘前藩兵とのいざこざで、死傷者があったことのみ、記載しておきます。

 

翌日も、新政府軍の攻撃は続きました。

艦隊は弁天台場の砲台、五稜郭への狙撃を行います。

春日と陽春より下ろした大砲を、箱館山山頂に据えての砲撃も行われました。

甲鉄からの砲弾が、五稜郭内の陣屋に命中したのは正午頃。

多数の死亡者もあり、衝鋒隊の古屋さんも重傷を負って、湯の川病院に運ばれています。(後、死亡)

 

その夜、箱館病院入院中の会津遊撃隊・諏訪常吉さんのもとへ、薩摩藩・池田二郎兵衛さんたちが訪れます。

五稜郭と弁天台場への「和議周旋」を依頼。

そして13日、小野権之丞・高松凌雲両人の名前での降伏勧告の書が、使者によって五稜郭と弁天台場に届けられました。

 

五稜郭では衆議のうえ、これを拒絶。

松平太郎・榎本釜次郎連名で、本日14日に返書を差し出しています。

(この時に榎本さんが「海津全書」を添えたことは有名ですよね)

 

一方弁天台場では、その籠城において水と食料の不足もありました。

 

 

前十二日来、予が軍、兵粮尽き、人馬の死肉を食ひ、或は草葉・田辛螺を食ふこと、・・・

   (相馬主殿回想録)

 

 

これを記した相馬さんが、本日降伏の相談に五稜郭へ行ったのですね。

余談ですが、「箱館軍記」によれば相馬さんは、台場から五稜郭へ行く途中一本木関門を通ります。

その際は下馬して町方に丁寧に挨拶したので、関門の頭はお茶を差し出して通した、と書かれます。

一本木関門という場所で、相馬さんは数日前のことを思い出してひっそりと黙祷したのでしょうか。。。

 

五稜郭では前記した通り、降伏には同意しません。

けれど弁天台場においては、その決意は変わらないようです。

 

なお、書かれる史料によって、五稜郭に赴いたのが

相馬松岡磐吉加藤庄太郎永山某」(中島登覚書)

と書かれる他

永井さんのみ(説夢録)

13日に相馬・松岡さん、14日に永井・相馬さん(北洲新話)

13日に永井・松岡さん、14日に相馬さん(蝦夷之夢)

13日に松岡・相馬さん、14日に永井・川村・相馬さん(麦叢録)

と、バラバラ ガーン

ただ「函館戦記」には相馬さんが五稜郭から台場に戻る際に、大野さんも同道した旨が書かかれます。

その際の一本木関門でのやりとりは、とても興味深いものがあるのですが、長くなるので割愛します。

 

こういうふうにみてゆくと、一説に「土方味方暗殺説」がいわれていますが、それはないな、と思えませんか?

すなわちその理由というのが、

主戦派の土方を、戦いをやめたい榎本もしくは大鳥が指示して暗殺ー という事でしょはてなマーク

歳様戦死の報に、自ら出陣しようとした榎本さん。

歳様戦死の日には、必死になって戦いを指揮していた大鳥さん。

その意図がどこにありますかはてなマーク

 

といいつつ、そんなにまだ詳しくなかった時は

私も一時期そう思ったことはあったのですが… アセアセ

特に大鳥指示、伝習隊実行説ね キョロキョロ

 

と、ちょっと話が逸れてしまいました m(__)m

 

 ※ 2019年6月撮影

 

 

   令和元年6月23日  汐海 珠里