⑤ より

 

 

     五月十一日朝四ツ時

   一本木鶴岡町

      土方討死

       附添

     沢  忠助

     安富 才助

     別当 熊蔵

     安富者馬を牽き五稜郭江行

     忠助熊蔵両人

     士官弐人相賴

     五稜郭江送る

小柴長之助

   使者

一本杉江来り

土方引渡す

   (佐藤彦五郎覚書)

 

 

安富さんは「土方戦死」の状況を故郷に伝えようと手紙を添えて、その役割を立川さんに託します。

付而者立川主税義、終始付添居候間

と、彼が歳様の傍にいたことを記し、密かに五稜郭を脱出させようとするのです。

手紙の日付けは16日。

結果として立川さんは箱館脱出は成功せず、新政府軍に捕らえられてしまいます。

降伏後は他の隊士たちと離されて秋田で、謹慎。

赦免後の明治5年(※)、ようやく日野を訪れた立川さんは、土方戦死の状況を伝えたのでしょう。

それを書き留めたのが、上記の覚書。

おそらくその時に「立川主税戦争日記」も持参し、それを佐藤家・土方家等で書写。

それが現在伝えられているものです。

 (原本所在不明)

 

この覚書によれば、歳様の遺体は五稜郭から小柴さん(若しくはその使者)が引取りに来て、沢忠助さんらの付添いで五稜郭へ運ばれたとの事。

安富さんは馬を引いていったようですね。

朝四つという時間は、夏至近くのこの頃であれば江戸では午前9時過ぎ頃。

箱館ならば日の出も早いので、もう少し早いのかな。

 

「両雄士伝」には、「従士、屍を担いて五稜郭に還り、壙を穿ち之を窆る」の言葉があります。

また明治32年上野東照宮で行われた遊撃隊・伊庭八郎さんを偲ぶための「旧幕府」の史談会の席上

八郎君の墓は函館五稜廟、土方歳三氏の墓の傍に在り

との発言は、あまりにも有名です。

この他にも称名寺や極楽寺などの名が上がりますね。

 

土方歳三は何を想って亡くなったのかー

今どこに埋葬されているのかー

私なりのひとつの「答え」が出たような気がします。

 

ちょうどこの記事がアップされる頃、私はその最期の地の近くにいる、はずです。

その「答え」の確信を得る為に。

 

 

 

死すへきときに死すれば、即ち可なり

 

 

   2019年土方歳三150年目の命日  汐海 珠里

 

※ 「立川主税戦争日記」は佐藤家による書写が明治5年頃とされていたが、2022年に初公開された高幡不動第29世賢賀和上の書写(近年之戦争)が明治3年であったことがわかった。よって日野に来たのは明治3年であったと思われる。

また同人による添書きには立川は姫路藩家老の子息であった旨が記されている。

※ 2024年に同人による明治15年・16年の書写が初公開され、そこには土方の遺体が本陣(五稜郭)内に帯刀・立埋めされていた旨が書かれていた。また死の状況の描写等も有り。(どこからか聞いた情報を書き入れたか?)