➁ より

 

主殿吾に謂ひて曰く、「吾内に在りて守らん。君は外に出でて兵を率ゐて来援せよ」と。

千代ヶ丘に至れば、陸軍奉行兼函館市中取締頭取土方歳三の額兵二小隊を率ゐてまさに函館を援けんとするに逢ふ。

吾もまた馬首を回らし、従ひて一本木の街柵に至るに、刃を露はにし馬を馳せて来る者有り、吾れを呼びて曰く、「七面山に戦ふも支ふる能はずして退く。かつ吾れも傷つき、復たび戦ふも能はずして退く。今日すでに迫れり。吾が隊惰者有らば、則ち謂ふ君これを斬れ」と。

面色赭の如く、眼光人を射、血流れて襪赤し。蓋し士官隊滝川光太郎なり。(中略)

蟠龍は数艦と敵し、砲台と相応じて戦ふ。砲は朝陽艦を砕き、海轟雷の如く、炎焔天に漲りて、我が軍皆呼快す。

歳三大喝して曰く、「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。然れども、敗兵は卒かには用ひ難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子は率ゐて戦へ」と。

   (函館戦記)

 

 

新選組たちが弁天台場に籠城になる時、相馬さんは大野さんを援兵を求める為に外に出しました。

「戊辰戦争見聞略記」によれば、大野さんは五稜郭に行き、その後台場に戻る途中の千代ヶ丘陣屋で歳様と会いました。

前夜に武蔵野楼にいた(と思われる)歳様ですが、おそらくは一度五稜郭には戻ったのでしょうね。

彼の出陣は、榎本さんや大鳥さんも承知していたはずですもの。

 

「島田魁日記」では「彰義隊、額兵隊、見国隊、杜陵隊、伝習士官隊」の五百余人を率いて、としていますが、ちょっと盛り過ぎはてなマーク

やはり大野さんが書くように額兵隊二小隊なのかな。

と思ったら

「蝦夷之夢」に五稜郭から 「副総裁松平太郎、陸軍副督土方歳三額兵隊、見国隊、神木隊、彰義隊を将い」との記述がありました。

「麦叢録」にも五稜郭から「松平太郎兵を率ひ千代ヶ岡へ出張し」とあるので、五稜郭からはそれだけの人数を引き連れて出陣。

途中千代ヶ丘陣屋で兵を分けたのかもしれないですね。

 

 

一本木関門まで来ると、市街戦に敗走してきた滝川さんと会います。

彼は酷い怪我をしながらも眼光鋭く、兵を大野さんに託す。

その時、蟠龍が新政府軍の朝陽を撃沈させたのです。

それに乗じての歳様のセリフはあまりにも有名。

この機失すべからず

吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん

 

大野さんは歳様が率いてきた額兵隊と、滝川さんから託された伝習士官隊を進撃させて、敵を「少しく退」ぞけさせます。

歳様はその一本木関門にて戦況を見守っていた、はず。

退く者は斬る、覚悟で。

 

「箱館事件」によれば、午前9時半頃に蟠龍に乗っていた永倉伊佐吉さんが朝陽目がけて砲を撃ったらそれが火薬庫に当ったという事。

ただし甲鉄の乗組員でそれを目撃していた曽我祐準さんは、史談会で午前7時35分と伝えています。

「太政官日記」にもその時間が記されています。

朝陽の乗組員は付近にいたイギリス軍艦と丁卯によって救助されましたが、50余人の死者があったそうです。

 

これを見て弁天台場砲撃中であった甲鉄と春日が蟠龍を追撃。

蟠龍はやがて岸に向って進み、そのまま海岸に座礁。

砲弾を撃ち尽くし、甲鉄の砲撃で機関を損傷してしまうのです。

この時乗組員は上陸するのですが、その際お手柄を挙げた永倉伊佐吉さんが溺死したそうです。(「蝦夷之夢」より)

この溺死というのが、艦長の松岡さんを救助する為とか…?

この辺りのエピソードもまたいつか機会があればご紹介したいですが、今はその余裕がちとございませんので お願いあせる

 

そして長くなり大変申し訳ないのですが、➃へ m(__)m