幕末続きです
150年前の本日は、明治2年4月10日。
この日歳様は、市渡より二股に向い、箱館軍は台場山などに胸壁を築きました。
翌十日、二俣〈地名。市渡村距る三里〉に至。騎兵、官軍すでに稲倉石の険〈騎兵司の報告及び斥候。稲倉石は地名。二俣距る五里〉に寄するを報ず。是に於き、軍二俣に駐む。(中略)昼夜督役せしかば二日にして成る。
(函館戦記)
二股口には陸軍副都督土方歳三、衝鋒隊〈二小隊。指図頭取〉、伝習歩兵隊〈一小隊。指図役頭取中根量三〉を将ひて出張し〈十日〉、下二股を本陣とし山上嶮を取て胸壁十六処を築き〈春来築きしもあり〉。又上二股〈下二股より一里半〉の山上に壁四ヶ所携へて之を守りしに…
(函館戦史)
一般に「二股口」と書かれますが、本陣が置かれたのは、「下二股口」になります。
新政府軍は江差から三道に分かれて進軍してきますが
その一軍は、中山峠を経由して、上二股、中二股(天狗岳)、そして下二股から市渡、五稜郭への道でした。
それを迎え討つ準備です。
天狗岳には塹壕が三~四ヶ所、そして下二股口の塹壕は「十六」と書かれたものが多いです。
が、実際は戦い最中に構築されたものもあったとか。
上記引用史料などから、これまでも塹壕の準備は進められてはいたものの、2日程で急遽造られたようですね。
この道は一本道となり、その道を見下ろす形となるので防衛には有利な地勢となっています。
大野さんは、「真の天険なり」と表現します。
作戦指導はフランス軍人・フォルタンさん。
歳様ではないですよ
※ 2011年6月撮影
令和元年5月21日 汐海 珠里