幕末に戻ります
150年前の本日は、明治2年4月6日。
この日箱館に英国船より新政府軍襲来の報が届き、各国在函者は青森避難へ、箱館軍は迎擊体制を整えました。
六日、曇、アルビヨン着、上下動揺不少、市中触出す、
(苟生日記)
六日、英国の商船〈アラヒラン、船の船名のり〉奥の青森より官軍に意を受来り曰、曾て布告せし如く、追討の為に官軍此地に来る近きにあり。
(戊辰戦争見聞略記)
四月六日、英国艦「アルヒヲント」伝船来て申すに、追討官軍来る事近きに有り今より二十四字の間に在り、
(立川主税戦争日記)
六日八ツ時大森浜沖 官軍蒸気船二艘相見得候故賊徒には夫々手配致し候
(箱館軍記)
少し時間を戻して新政府軍の動きを。
25日の宮古湾海戦後、甲鉄他艦隊は翌日に青森港へ到着。
順次石炭を積んだ輸送船や兵士渡航用外国船も到着。
4月4日には陸軍参謀だった山田市之允さんが海軍参謀も兼務することになり、追討の準備が整うのです。
初めの予定では5日午後に青森出航、翌未明乙部到着でしたが、出航が1日遅れたり天候が荒れたりして、渡航はもうちょびっと後になりました。
箱館では情報はすでにつかんでいて、「箱館軍記」によれば、この前日の5日に市中に避難命令が出されていたとの事。
老少の者は山小屋や南部陣屋裏手立ち退かせ、「亭主たるもの一人ずつ我家に籠りあり候」のお触れがありました。
小柴長之助さんが「百姓町人立退場」と記された旗を町々に1本ずつ渡して、逃げ場に立てました。
そしてこの日、英国商船から上記のような24時間以内に新政府軍が襲来するとの報が届き、各国の人たちは「家具を尽く青森に運遷し、各其艦に乗し函館を発し出」ます。
余談ですが、この時新政府軍は各国の軍艦に 「戦争中立退く可」との達しを出し、その代わり各国商人たちには「戦争中一週間の手宛三万弗を出すことを約せりとかや」(説夢録)
これは支払われたのでしょうか
って、一週間でカタがつくと思ってたんだっ
箱館軍は各持ち場での体制を整える準備に入ります。
新選組は弁天台場を本陣として、箱館山背面の寒川・山背泊、山上の十番観音、沖之口運上所の部署を厳重に固めます。
「箱館軍記」には、
「弁天台場頭 相馬主計 百人」
と書かれています。
弁天台場は新選組のみではなく、市中布陣の伝習士官隊や箱館奉行配下の兵たちの拠点でもありました。
その「陣将」として、相馬さんが任命されたということですね。
で、歳様は
「江差口二股頭 土方柿蔵 人数四百人斗」
と書かれています
そしてその 柿様 歳様は… ➁へ m(__)m