昨日の続きです キラキラ

 

 

実は私の実家は大磯から近い茅ケ崎です。

生まれは東京なのですが、育ちはずっと湘南・茅ケ崎 ニコニコ

松並木や磯の風を感じながらの道は、懐かしさを覚えます。

 

途中にあった煉瓦のお家。

素敵ですよねぇ~ 照れ

 

見えてきました 目

 

島崎藤村邸

 

 

 

大磯駅より東海道線路沿いに徒歩 5 分。町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラス ( 現在は希少 ) が使われている。小さい素朴な冠木門に割竹垣に囲まれた小庭。 カナメやモチの若葉、朝顔や萩、湯河原から取り寄せた寒椿が花を咲かせる小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んでいた。また簡素を信条とする藤村の気配りが今も感じられる。
 (大磯町HPより)

 

 

 

 

縁側にあった、これは何 ?

 

笹尾真さんの立体切り絵文字ペーパークラフト キラキラ

「東方の門」ですって。

 

 

 

三間の一室は茶室風に作られた小座敷で、静子夫人は書斎とよび、藤村はこの部屋で畢生の大作『東方の門』を執筆。
昭和18年8月21日。
朝9時半頃、藤村は廊下に立って庭を眺めながら静子夫人に 「まだあすこを書いているんだよ、しかしこんどは思うように出たと思うがね、あすこが出来てしまえば、あとは雑作ない、和助が東京を立つだけだから…一寸今、読んで見てもらおうか。」
「原稿を読んでしまったら、きょうはお菓子をつくってくれ。」
茶の間で静子婦人が茶棚をうしろに机に向かい、藤村が机をはさんで端座して聞いている。
「青山半蔵には、中世の否定ということがあった…」その行から三四行読んだ頃、
「ひどい頭痛だ」と藤村の小さな声。藤村は茶棚にある常備薬を取りに行くが、静子夫人に倒れかかった。
「どうしたんだろうね。」いつも通りの静かな藤村の声。
「気分もよくなってきた、頭痛もしないよ…眼まいはちっともしない…涙を拭いて…」
「原稿が間に合うかね、そう 50 枚あるし…あそこで第三章の骨は出ているしね…」 東の方の庭に眼をやってじっと見ているかと思うと、
「涼しい風だね」 庭から眼を離さず気もちよさそうに涼風の過ぎるのを感じているようです。もう一度
「涼しい風だね」と……。
そのまま深い昏睡、意識はかえらず、翌22日午前0時35分に大磯の地で永眠。
『東方の門』は「和尚が耳にした狭い範囲だけでも」までで遂に未完で終わりました。
町屋園は藤村亡き後静子夫人が住んでいましたが、終戦間近の切迫した状況により箱根に疎開しました。
町屋園が空家になってしまうことから昭和 24 年から高田保が住み始め、著作の『ブラリひょうたん』は大部分が町屋園で書かれました。
高田保は昭和27年にこの町屋園、藤村邸で没しました。その後静子夫人が昭和48年に亡くなるまでお住まいになりました。
  (同)
 

 

静かな静かな佇まいでした。

 

 

   令和元年5月14日  汐海 珠里